元治元年【春之陸】

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    「はぁ……」 割れた襖を前に夜風が吹き込む室内の障子を見つめ溜め息が漏れた。 廊下に座り込み漸く肩の力を抜き、やっと解放された気がした。 「真に、願うなら…か、これも又、運命か……」 知らぬ間に座敷は静まり、よく見れば皆が雑魚寝をしているのが伺える。 後、一刻したら店を出よう一人になった部屋でそう決めて廊下へ視線を戻した。 「呉野…一刻したら起こせ」 「……河野…はん?」 恐る恐る部屋を覗き込む呉野は今にも泣き出しそうだった。 小走りに駆け寄り震える両手を私の頬に添えて顔を見つめる小さな瞳。 「何故、戻ってきた…もし、斬り合いになっていたらお前まで巻き添えを喰っていたんだぞ」 「…っうぅ……死な、ないで…おくれ、やす」 必死に堪えていた涙が堰を切って溢れだす。 首を横に振って聞き分けの無い子供の様に顔をくしやくしゃにして泣く呉野 「わしゃ、吉田稔麿っちゅうんじゃ」 生まれた郷の言葉で私は呉野に告げる。 呉野はゆっくりと視線を上げて私を見ると、何度も首を縦に振った。 「吉田はん……生きて、おくれやす」 壁に寄り掛かり、呉野の涙を拭う様に頬を撫でながら眠りに就いた。 懐かしい、あの日を夢に見ながら。
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