元治元年【春之七】

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    皆が茶を一杯ずつ貰うと輪違屋を後にした。 邸に戻っても 何時もの毎日に戻っても 俺はあの夜の本庄を忘れられない。 あれからひと月が過ぎた少し暖かくなり始めた春先。 邸に客人が現れた。 「土方副長、江戸より客人がお見えになられておりますが?」 障子の向こう側で若い隊士が報せに来た。 江戸から? 「誰だ?」 「はい…それが、江戸で行商を営む老人とまだ若い男の二人で、とにかく土方副長にお会いしたいと…」 江戸の行商? 老人と若い男? 薬屋をやっていた頃はそんな顔馴染みはいなかった。 誰だ? ……間諜? 「すぐ行く、控えは何処だ?」 「一番隊と五番隊、九番隊です」 「武田を呼べ、一番隊を裏から八木邸へ回せと伝えろ」 「承知」 若い隊士は短く返すと直ぐに気配を消した。 あいつ、使えるな…名前は何と言ったか? 着流しから袴に着替えながら覚えてる名前を上げたが思い当たらなかった。 そうこうしていると… 「人を呼び付けておいてまだ着替えてるってどうかと思うよ土方君」 「なぁ武田、お前を呼びに行った奴は何て名前だった?」 「は?…中村君かい?」 「中村?」 「中村金吾、備中の出で確か去年の五月頃入隊させたよね?」 「へぇ…」 「あのねぇ…そんな事より客人!どうすんのさ?かなり身なりのいい行商じゃないか、卸問屋でも兼ねてんのかね…」 「さぁな…知ったこっちゃねぇよ」 障子に凭れ人の着替えを眺める武田にさっさと終わらせておけば良かったと後悔したが、仕方ねぇ。 「二人か…沖田君いたかなぁ?」 「おめえにしちゃ見立てが良くねぇな」 「若い彼はてんで駄目、よっぽど老人の方が気になるなぁ」 横を擦り抜け門に向かう俺の後ろをご機嫌で歩く武田はやはり胸糞悪い。 こいつの笑い顔は信用に欠けるが状況は明白で芳しくない。 客人では無く敵襲だと冷めた笑い顔はそう言っている。
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