元治元年【春之九】

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    中へ通される途中に小柄な男は別の者を呼びに姿を消した。 通された部屋はこの邸にしては上等で床の間には梅の花が風情善く生けられている。 「失礼ですが、そちらの方は?」 土方と言う男に問われ隠さなければならぬ云われも無い為 「将軍後見職一橋慶喜」 と、だけ答えると… 土方の息を飲む音が静かな部屋によく聞こえた。 程なくして、随分と豪胆な男が現れ土方に紹介を受けると、又違った雰囲気を醸し出した。 畏怖 少し前、家茂が十本刀に対しこんな感情を抱き一定の感覚を保ち、自らの均衡を守っていた時期があった。 一人の女がその均衡を天秤ごと跡形も無く叩き潰して以来、その感情も表情も見せなくなった。 中条資春 我が実兄の首を撥ねた男の子孫。 中条雪資はあの時、あの女を庇った。 私は目の前で兄が殺される様を見ていた訳では無い。 兄を殺す様を見ていたのだ。 喉を貫かれ、胸を打ち抜かれ血泡を吹き慶篤が最期に見たのは中条資春では無く中条雪資だった。 何もかも遅いと断末魔の様に呪いの様に慶篤が中条資春へ吐き捨てる事を中条雪資は許さなかった。 色を無くし刀に手を掛けた中条資春の手を抑え、滑り込む様に中条雪資は中条資春の前に出て、あの大太刀を抜き払った。 あの時の中条資春の瞳は畏怖に染まり、力なく畳に膝を着いた。 私は実兄の首が目の前で転がっていようとも、その後ろで項垂れた女が忘れられない。 「本庄を呼びましょうか?」 土方の問い掛けに鈴木は僅かに目を伏せ断りを入れる。 そんな風に脳裏に焼き付くまでの存在となった女に私は会う気に等なれなかった。 「鈴木がいいのなら私も会わなくて結構だ」
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