元治元年【春之九】

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    そうして、鈴木はすくりと立ち上がると振り返り近藤を見る。 一瞬、怯えた様にも感じたが、それは少し違った様だった。 それよりも私は耳を疑った。 中条資春を還せと鈴木は独断で命令を下したのだ。 許より、家茂からそんな命は受けてなどおらぬ。 私は鈴木の表情を窺うと呆れた。 この狸爺め… 笑いを堪えている。 僅かな不憫さを感じながらも近藤に視線を向けて、それなりには驚いた。 この男はこの男で… 絶対に還さないと断言した。 討ち首もこの男の前では脅しにすらならなかった。 鈴木は満足したのか高笑いをして部屋を後にし、私はそれに倣う。 相変わらず人通りの多い道にも関わらず、鈴木はすいすいと歩を進める。 「おい」 「………」 「おい!」 「…………」 「鈴木!!」 「家茂には黙っておれよ」 「…………あぁ」 何故、鈴木があんな事を言ったのかは分からない。 勿論、考え無しに物を口にする男ではないが…その考えを推し量れる程、私は長く生きてもいないし、その短い人生を踏破してきた訳でも無い。 だが、心成しか鈴木の歩調が先程より軽やかなのはきっと悪い事では無いのであろう。        「豆腐でも食うか?」 「豆腐?今?」 鈴木は止まる事も振り返る事もせずに突然提案した。 確かに豆腐料理は京料理でも有名で伏見の大名の名物土産に堂々と名を連ねる。 等と唐突な豆腐の提案に頭を豆腐に切り替え判断しようとする前に既に鈴木はある寺社の門を潜る。 「な、おい!待て!」 「何をしておる置いて行くぞ?」 城の皆が翁と敬うこの老人を爺と呼んでもいいと私は今思う。 老いては子に従うのが習わしだろうが。 狸爺。
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