元治元年【春之拾一】

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    「助けて、くれるのか?」 「お前さんに死なれちゃ困る」 「…私が死んだ位じゃ世界は変わらない」 「だから困ると言っている」 「……え?」 「還暦を過ぎて、まだ馬車馬の様にこき使われる老いぼれにだって、夢くらい見る…この国は、変わらなけりゃならん、でなければ儂の老後は安泰とは呼べん……お前さんなら、きっと首輪を切っ……違うな、外してくれる筈」 鈴木永嗣の瞳は穏やかで、それでいて…悲哀に満ちていた。 この老人が辿った狗としての数十年… もうすぐ迎える天寿 引き替えに差し出される我が子 恐怖や怒り悲しみなどでは済まない… 狗として生きるのは、その血に生まれた運命。 逃げは決して許されない。 「御子息か御息女が…?」 「刀鍛冶に預けた一人息子がな」 鈴木永嗣は少し息を吐くと目を少し伏せ、後悔を浮かべた。 「刀、鍛冶………まさか、」 「あぁ……知らぬよ」 徳川十本刀は現代ではどういう教育を受けているかは知らないが、嫡子は必ず幼少より業と歴史を叩き込まれる。 少なくとも、中条家はそうして次期十本刀として育てられる。 大概はそうして一子相伝で徳川十本刀の秘匿は守られてきた。 勿論、裏切りも許されない。 だから、嫡子がいる以上は生業を継がなければならない…鈴木永嗣の子は刀ではなく鉄砲に触れてなければならないのに… 「儂は、あの子に何も言わずに置き去りにしてきた…あの子を、儂と同じ手にさせたくないんだよ」 ゆっくりと目の前に差し出された両手には皺が深く刻まれ、人差し指、親指、掌の小指の下辺りには固い豆が出来ていた。
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