空のこっち側

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   少年は必死に走っていた。とりあえず、誰にも逢わずに済むところへ。  東京都調布市、調布飛行場。旧羽田空港場外発着場。さらに古くは旧米軍調布基地跡。その広大な敷地内に設けられた運動公園の中を、ただひたすらフェンスを目指して、少年は走っていた。  少女と見紛うばかりの端整な顔立ち。僅かに癖のある髪。  年の頃10歳ぐらいだろうか。その少年の視界は涙に濡れ、呼吸は不規則で足元はおぼつかない。小さな地面の凹凸に何度もつまずいて転びそうになりながら、滑走路のフェンスに向かって、少年は走り続けた。  だが、止めどなく流れ落ちる涙に覆われた彼の瞳に、目的のフェンスは映らなかった。  彼は、滑走路のフェンスに頭から突っ込んだ。彼がそのまま後ろ向きに倒れず済んだのは、涙に滲む視界と、しゃくり上げて不規則になる呼吸のせいで、足元がふらついていたからにすぎない。単に衝突の勢いが足りなかったのだ。  彼はそのまま両手でフェンスを鷲掴みにして、何度も咳き込み、そして嗚咽の呻きを漏らした。  辺りには誰もいない。少年の前方、やや右より、そして遥か遠くから、小型飛行機のターボプロップエンジン音が響いてきた。  少年は胸に痛みを覚えた。心臓も、肺も、そして別の意味でも。  双発の飛行機のエンジン音が、次第に近付いてくる。しかし、涙に覆われた彼の視界には、無数の光の泡が生まれては弾けるばかりで、滑走する飛行機の姿を捕らえることなどとても出来ない。  やがて彼は、叫びだしたい衝動を抑え切れなくなっていた。  絶叫。  そしてそれを掻き消す飛行機の爆音。  彼の叫び声が何らかの意味を持つ言葉を為したかどうか、もう、彼自身にさえ判りはしない。  だが、その叫びは確実に、少年の心の中の堤防を決壊させる引き金になった。  少年はその場にへたり込み、そのままフェンスにしがみ付くようにして号泣した。  ターボプロップ双発の飛行機はそのまま少年の左肩をかすめるようにして、蒼穹の彼方へと駆け昇っていった。  日本政府から、後に「エスプルサット計画」と呼ばれる、国際的な巨大プロジェクトが発表されたのは、丁度その時のことだった。
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