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やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……。
「お兄ちゃん、ただいま」
家の前で待っていた。スーツ姿の兄が、帰ってきた。
「おかえり」
3年ぶりに会ったのに、何ともない様子。ちょっとがっかり。
「お兄ちゃんに見せるのは初めてだっけ。どう? 似合ってるかな、この制服」
私も普通にする。本当は今すぐにでもぎゅってしたいけど。我慢。
「似合ってるよ」
兄が家の鍵を開ける。続いて私もなかに入る。
「あのね―――契約が切れたの」
「うん」
「だから、帰ってきたの」
「うん」
「だから、また、一緒に、暮らしてもいい?」
「いいよ」
「ほんとに?」
「だからいいよって」
拒まれなかったのが嬉しくて、思わず抱きつくが、案の定それは嫌だったらしい。
私は倒れる。慣れている。私はまた立ち上がる。慣れている。
「お兄ちゃん、好きだよ」
「僕は嫌いだよ」
「うん。知ってる」
慣れている。それでいい。変わってない。
かつての自室は、几帳面な性格の兄が掃除してくれていたらしく、片付いていた。
私はバッグから写真を数枚取り出し、丸い卓袱台に並べていく。
笑顔を貼り付けた秋先輩と、赤い絨毯と、女の子が写っている。
「さて、今度は私の番だね」
これからのことを想像し、大いに笑った。
Fin.
引用:中原中也『一つのメルヘン』
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