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その行動を肯定する根拠は殆ど無い。
ただ、私の旅行鞄の中にある一冊の日記帳だけが、その可能性を示唆しているに過ぎない。
その日記帳は、私が二年前の夏、この地に滞在していた事を記している。
二年前の、今日。
平成六年八月一日に、私はこの駅に降り立っている。
そして今。
平成八年八月一日、『再び』私はこの駅に降り立った。
日記帳に記された記述を元に、私は二年前の足跡を追体験してみようと思う。
石川県の、加賀温泉郷と呼ばれるこの地に、私の『記憶』は眠っている筈なのだから。
ふと、私は視線を感じて、その方向に目をやった。
温泉旅館の旗を両手に持った若い男が、こちらに視線を送っている。
その旗の下部には、何人かの名前が記されていた。
その中に、『私』の名前を見つける。
『歓迎・龍川千秋様』
それを確認してから、私はもう一度彼の視線に目を合わし、軽く会釈した。
すると彼は、ぎこちない笑みを浮かべて、私の方に近寄って来た。
「ホテルながむらの石坂と申します。失礼ですが──」
「龍川です」
「龍川千秋様。お待ちしておりました、どうぞ送迎車の方へ」
石坂と名乗る旅館従業員に促され、私はマイクロバスへと乗り込む。
さほど広くない車内には、私以外の何組かの旅行客が乗り合わせていた。
小さな子供を抱いた若い母親と、中学生くらいの兄妹を連れた四人家族、さらに一組の老夫婦。
私は、それらから離れた一番後ろの座席に腰を落ち着けた。
「あとお一方でお揃いですので、もうしばらくお待ち下さい」
石坂は、車内の乗客にそう言い置いて、再び先程立っていた場所へと戻った。
車内には、ふっと鼻をつく香りが漂っている。
少し、硫黄がかった様な──。
温泉の香り?
特に不快な香りでは無いのだが、この香りにもまた、私の胸は微かな痛みを覚える。
『湯の香』。
そんな言葉が、私の脳裏に浮かんだ。
ああ……。
頭が痺れる様な感覚が、私を支配する。
この香りの向こうに、私の過去が存在する。
様々な風景が感じさせた
『懐かしさ』よりも、さらに明確な手応えが、この香りにはある。
づきんっ。
私の胸が、確かな痛みを覚える。
これは、『追憶』なのだ。
私、龍川千秋は、改めて自分に言い聞かせた。
この香りの向こうにある、霞みがかった私の『記憶』。
この旅は、それを取り戻す『追憶』なのだ、と。
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