五月七日

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 時計に目をやると、時刻は七時過ぎ。いい加減に支度をしなければ、本当に遅刻をしてしまう。  クローゼットを開け、制服に手をかける。何日か振りに袖を通した制服は、降り続く雨のせいか少し湿っぽかった。  鞄を手に階段を降りる。  リビングのドアを開けると、珍しく父の姿が見えた。顔を合わせるのは久し振りの事だ。  父の仕事は物書きだ。  大学で哲学を専攻していたらしく、その時書いた論文が教授の目に留まり、その人を伝って最終的には出版社から仕事が来るようになったらしい。僕は哲学なんてものには全く興味が無いので、父の著書を読んだことはないが、その道では結構有名らしく、本もそこそこ売れていると聞いている。  そんな仕事をしているので、一日の殆どは書斎に籠もり執筆をしている。昼夜の感覚も麻痺してるので、こんなまともな時間にリビングに居る事なんて、そう無いのだ。 「おはよう、父さん」  僕は父に呼び掛けた。  父はちらりとこちらを一瞥して、「ああ」と言うと、すぐに読んでいた新聞に視線を戻した。  ただ、それだけの事。それだけの、言葉のやりとり。  それでも、僕は嬉しかった。  僕が父を「父さん」と呼び、父がそれに答えてくれる。それで、僕と父が親子なんだと実感する事ができたから。  父は寡黙な人だ。……いや、寡黙な人になってしまった。  十年前の、あの日から――  トースターが、朝食の完成を音で告げた。  余り時間が無かったので、トーストを一枚だけ。それをブラックのホットコーヒーと共に流し込んだ。 「父さん、行ってきます」  父は今度は新聞を見たまま「ああ」と答えてくれた。  リビングを出る前に、サイドボードに飾られた、母の写真に目をやる。それは、毎日の習慣になっていた。 僕は目を閉じ、心の中で母に伝える。 「行ってきます」  そして、「ごめんなさい」と。
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