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紀が思い出したように語り出した。
昔読んだ絵本、ねずみの話を紀は懐かしみ、寂しそうに語った。
以前クラスの誰かが紀の母親は亡くなっていると口にしたのを聞いた。片親がいない事は珍しい事ではないが、紀にとって痛切に感ずる。
寂しそうな紀を見ると胸が痛んだ。紀の中ではねずみの話は特別な物で、容易に触れてはいけない。
紀は寝入る直前、儀式のように大きく息を吸い込み、吐き出す。強張っていた肩がストンと落ち、小さな寝息を立てる。
本来の彼は静穏を好むのかもしれない。
こんなふうに無防備な姿を晒し、落ち着ける場所が俺の隣だったら、それはそれで気分が良かった。
紀は手先が器用でボタンが取れたら裁縫セットを借りて自分で縫う。絵を描いたら意外と上手い。そしていざとなると機転がいい。
調理実習で肉じゃがを作ることになった。
「洸太は芋ね」
皮を包丁で剥くのは苦手だが授業ならやらねばならない。
包丁を手にして剥き始めたら親指を切り、赤い液体が流れた。
「うわっ!何してんの!?」
周囲も驚き、笹原は「人肉じゃが!」と叫び内田に飛び付く。人事のように人肉でパイを作る映画があったと思い出す。
紀は未使用のふきんを傷口に押し当て止血する。
「洸太、保健室!」
芋と包丁を放り出し、保健室へ向かったが校医は外出のため無人だった。ふきんを外すと血が早くも止まっていた。
「思ったより傷浅いな。一応水で洗い流して」
言われるがままに血を洗い流し、椅子に腰掛け紀はガーゼで水気を取り傷の具合を見る。脱脂綿に消毒液を付け、傷口に当てられると浸みた。
「…っ……」
「我慢!男の子だろ~」
紀は笑いながら処置する。案外サドっ気があるのかと疑問を抱く。
「洸太にも苦手なもんがあるんだな?このエプロンの縫い目超ガタガタだし」
着用しているエプロンは授業で縫った物だ。
「…昔からダメだった。皮剥きなんて…そのまま食える物はそのままでいいだろ?」
「ワイルド~。…でもなんか嬉しいなぁ」
「…何で?」
「洸太は成績優秀だから同じ人間かよ?って思ってた。洸太も人間くさいとこあるんだぁって安心した」
前の俺ならみっともない姿を友人にも晒す事はなかった。でも紀になら別にいいかと思えてきてしまう。
紀の存在は『特別な友人』だと俺はそう思っていた。
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