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取引先の上司だか脂ぎった膨れ腹のオヤジが何やら嫌みのように笑みを浮かべながら言った。
「ピアノ、もう弾かれないんですか?」
その言葉を聞く度に視界が大きく揺れる。
とっくの昔に決めた事だが、今でもまだその決意が揺らぐときがある。
「ええ、もい弾かないと決めたんです。あの子の…里沙のためにも安定した職が良かったので。
それに、
何よりこの手ではもう弾けませんから」
いつもの作り笑顔で返すと商談を再開する。
俺は、それなりに有名なピアニストだった。
二年前までは。
俺の右手に生々しく残る銃痕が俺と里沙からすべてを奪っていった。
俺の人生も、
ピアニストとしての居場所も、
ピアノも、
愛する人も。
それはアメリカの長閑な公園で起こった事件。
薬物中毒の少年が錯乱して銃を発砲。
死者10名、重軽傷8名の被害に加え犯人自殺という末路に終わった俺にとっては憎らしい記憶。
俺は恋人と手を打ち抜かれ、
里沙は両親とまだ母親の中にいた弟を失った。
絶望と現実を悪夢のように漂う俺に、
神様は里沙を俺に与えてくれた。
里沙と過ごす時間だけが俺を唯一現実をつなぎ止め死を踏み止めてくれた。
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