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白シャツに紺色のパンツというシンプルな出で立ちの女性、昨日立ち寄った弓屋のシュトライヒャーの嫁が、弓ケースを持ち「昨日は失礼しました。私の事、覚えてますか?」と僕に握手を求めてきたのだ。
「覚えてます。」
覚えてるけど、昨日はエプロン姿で“奥さん”という感じがしたけれど、今日は化粧もばっちりと決めて、仕事人というイメージがする。
シャツから覗く鎖骨辺りが妙に色っぽく、昨日とのギャップにちょっとときめいてしまったりした。
「…。」
いかん、いかん。綾子さまがお怒りになる。
「あの…。」
「は、はい。」
「ブラッキンさん達が帰られた後、主人がいきなりこれまでに自分が作った弓を壊しはじめて…。」
「…。」
「辛うじて数本救済してきました。」
たはは。彼の気持ちはわかるけど、奥さんは大変だ。
「教えてください。卒業制作の弓とこれらの弓とどう違うのですか?なぜブラッキンさんは弾きもしない、いえ、触りもしないうちから卒業制作の弓が一番良いと判断したんですか?それを聞きたくて並んでいたんです。」
「…。」
“なぜ”と言われても違うものは違う。なぜ違いがわからないのかわからない。
でも彼女の目は真剣で、そんな一言では納得しないだろう。
「…。」
ちょっと入りくんだ話になりそうだな。
僕は彼女に言った。
「あの、お急ぎでなければ待ってていただけますか?」
僕が卒業制作の弓が良いと言ったからこんな事になってしまったのだし、後でゆっくり話す方がいい。
「は、はい。」
彼女は顔を輝かせる。
僕はそんな彼女をルドに任せて、まだまだ長蛇の列のお客さんと握手を交わしていく。
そしてやっと終わったと思った途端に、スタッフの人に「外でも皆さんお待ちですよ。」と言われて、今日の演奏を聴くことができずに、でもホールから僕が出てくるのを待ち構えている人たちにホールの裏口でサインをする。
疲れてフラフラになって楽屋に帰った僕にリヒノフスキーは言った。
「すごい人気ですね。」
「うーん。でもこんなに“教えてくれ”と言われたのは初めてだよ。」
僕は燕尾服を脱ぎながら答える。
「コンクールを受けてる人や、マスタークラスの受講者も多かったですね。」
マスタークラス。
そうか。この音楽祭では著名な教師によるレッスンも行われているんだ。
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