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 ある時、彼は時計の盤上に居た。  森の広場に行く事は、もう無いらしい。  眼前には真っ白の盤。一から、十二までのアラビア数字が振ってあるのだろう、彼の足元には、二の数字。ここからだと、彼の視界に入るのは、一と三くらいのものだ。  だが、やはり此処でも、上手くは行かない。  短針は、十二時間毎に彼を襲い、長針は、一時間毎に、彼を追いやり、秒針は、一分毎に彼を突き刺した。彼は、どうしてもその針を飛び越える事が出来ない。ここでも彼は足を引っ掛け、身体中に傷を追う。  彼は、その日も傷だらけになりながら、しかし、壁のようなそれを相手に、四苦八苦していた。  もう、駄目だ。彼の脳裏には、最早それしかない。最早、飛べそうに無い。彼が諦念を滲ませていた、その時。 「大丈夫?」  彼女が、話掛けてきた。 「あちゃー! 駄目だよ、それじゃあ。私に掴まってみな? 行くよー! そうれ!」  飛べた。意図も容易く。 「ね! 簡単でしょう? 私に任せなさいッ!」  そうして胸を張った彼女は、盤上にある、一の数字のように見えた。そういえば、一の方面から来た気がする。 「ほらッ! そんなに背中を丸めてるから、飛べないんだよ? ほら、しゃきっとしてッ!」  彼の背中は、まるで、二のように丸まっていた。彼の自信と、それは比例しているのだ。 「何で手伝ってくれるの?」  だから彼は、彼女に問わなければならない。彼には解らないのだから。何故か。 「隣だからよ」  彼女は、臆面も無く言ってのけた。 「ほうら、行くよッ! ほらッ、ぼさっとしないの! せえの、そうれッ!」 「……うん。そうれッ!」  飛べる。確かに、飛べる。彼女が一緒ならば、幾らでも飛べる。 「簡単なんだからッ! ね?」 「うん、簡単だ。ありがとう!」  彼等は笑顔になり、ゆっくりと盤上を回っていく。  三、四、五。彼は、彼女の事が好きになっていった。  彼女は猫のような柔軟さで飛び回り、時には甘えた声を出す。  彼が惹かれない筈は無かった。彼にとって、最早ここは「迷宮」じゃ無かった。何事も、彼女となら飛び越える事が出来るのだ。これほど簡単な迷路もない。
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