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夕方の五時半。鐘が鳴る。彼は、今日この日の事を、永遠に忘れたいと願っている。
朝の朝礼から始まった今日。眼鏡の一件。
昼休みの後の、冷やかしも忘れたい。流石に大っぴらにしすぎた。皆の一様に驚いた顔が、未だにちらつく。
それと同時期に起こった、フロア中央に位置する、ベルトコンベアーの突然の故障も忘れる事にする。ラインが一切機能せず、唸る立川。怒り狂う立川。顔を真っ赤にして、演説は三倍増しだ。
それに寄って、巻き起こる緊急会議。騒ぐだけ騒ぎ、今日だと説明されていた部材の納期が、実は、明日であったと云う事実。立川は消えていた。帰ったのかもしれない。
殺伐と混沌が交互に入り乱れ、彼にもこの五時間で、幸運な事に、その程度しか覚えていない。いや、思い出したくもない。
「環。今日は残業しないのか」
坂巻が、寄ってきて笑顔を見せる。
「いや、勘弁して下さい。今日は、今日だけは」
彼も、自らが作業していた場所を手短に片付けつつ、笑みを零した。
「ああ。まあ、今日は色々あったからな。しかし、驚いたぞ。本当なのか?」
昼の一件は、どうやら会社全域に伝わったらしい。奴らは、テレビを見る振りをして、聞き耳を立てていたのだろう。似たような弁当箱に、同じようなそれが入っていたのを、密かに視認していたのだろう。
勿論だが憶測だ。今日の彼には何も見えていないのだ。
「ああ……。はい。いつの間にやら、と云った感じですが」
「そうか。……うんうん。良かったな。この頃お前の元気が無くて、心配してたんだぞ。よしッ! 今日は帰れッ! 偶には目一杯遊んでこい。だが、飲み過ぎて遅刻、なんて事は止めてくれよ? ……あれ、佐藤はどうした。一緒に帰るんだろう。彼女も今日は用事があるなんて言ってたからな。全く……、良い事だ」
満面の笑みを讃える坂巻を見て、彼は素直に「ありがとうございます」と言い、頭を垂れた。
坂巻には、悪意が無いのだ。余りに珍しい人間だ。何時までも彼を気に掛けてくれている。
もしかしたら、真実に何かを聞いているのかもしれないな、と彼は思った。
彼は、坂巻に自身の事を話した事は無いが、真実には全てを話していた。彼が抱え込んだ、全てのものを。
それを真実が坂巻に話していても、何ら不思議はない。
この優しい上司であり兄貴分は、彼のみでは無く、彼等二人の兄貴分であったのだから。
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