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一
「桜さま、本当にお戻りにならなくて宜しいのですか?」
菜月が、気遣わしげに聞いた。
今宵は管弦の宴があって、客や女房たちは殆んど母屋へ集まっている。
桜は、最初に御簾の内にいただけで、早々と自分の住まいである西の対屋へ戻ってきていた。
「菜月、戻りたければお戻りなさい。菜月の想い人も来ていたようだし…ね」
少しからかうように言うと、菜月がぱっと顔を伏せる。
桜は正装を解いて、今は寛いだ格好であった。
夏になると食が細るために、より細い躰は、その衣に着られているかのようにひどく頼りない。
夏の涼を求めて管弦の宴は開かれているのだが、客人たちの、主に対する透けて見える打算と自分の値踏みに、桜は吐気がしそうだった。
「……本当に行っていいのよ」
もたれていた脇息から振り返ると、菜月はぱっと一礼して裾を鳴らして立ち去った。
それを、淡く苦笑して見送る。
(想い人……か)
自分は来年にも入内しなくてはいけない。だから自分の想い人は皇子だということになるのだろうが、何も実感は湧かなかった。
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