乱世の兆し

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時は紀元2世紀末の中国。光武帝【劉秀】が建国した後漢王朝も斜陽の時を迎えていた。時の皇帝【劉宏】は日々酒と女に溺れ、国政を省みなかった。国の政治は専ら十常侍を筆頭とする宦官と外戚の【何進】らによって牛耳られていた。宦官、外戚らは皇帝と親しい間柄である事をいいことに自分達に抗う人間を不当に弾圧したり官職の売買などを繰り返した。そのため朝廷の上層部には賄賂で官職を勝ち取った無能な人間が跋扈し、有能な人間が朝廷からしめだされるようになった。そして朝廷の混乱は各地に広がり、治安は低下し盗賊が蔓延り、賄賂の押収のため農民は重税をかけられ、反乱が起こった。まさに地獄のような世界であった。しかし朝廷はそれら各地の情勢を全く意に介さず、それどころかさらなる重税で人々を苦しめた。多くの人間が悪政の前に倒れる中、太平道と呼ばれる宗派が幽州で台頭し始める。太平道とは、教祖【張角】がお札と聖水で病を治した事で有名となり、半年もすると信者は数万人に達した。爆発的に勢力を広めた太平道は、西暦184年、張角の「蒼天已死」の言葉に呼応し、中国13州の内8州で大規模の反乱を起こした。これぞ、中国史上最大の農民反乱【黄巾の乱】である。 黄巾の乱の名は太平道信者が、火徳の王朝で、赤をシンボルカラーとする漢に代わり、黄色の世が訪れる事を表すために黄色の頭巾を被っていた事に由来する。故に彼らは黄巾党と呼ばれた。そして張角は自らを【天公将軍】と称し、弟の【張梁】【張宝】をそれぞれ【地公将軍】【人公将軍】と呼んだ。 その黄巾党の常軌を逸する勢いに、さすがの朝廷内にも動揺が走った。そこで霊帝(劉宏)は外戚【何進】を大将軍に任じ、鎮征軍を編成、各国の諸侯に討伐命令を発した。 何進は中郎将【皇甫嵩】【廬植】【朱雋】の三将に軍勢を整え、戦地に赴くよう命じた。 将軍らは大将軍何進の命に従い、それぞれ激戦地へと急行するのであった。
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