平家神社

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由来   この平家谷は、文治元年(1185)長門の国壇之浦(現在の山口県下関市)の源平の戦に全敗した平家一族が、瀬戸内海を東西南北へと落ち延びて行った。   その内、平有盛系一族8人は、三崎半島の瀬戸内海添いに流れ着き、現在の伊方越へ上陸し、命からがら、津々浦々を歩き廻り、逃げ落ちたのが平家谷です。   当時、この地は夜昼に区別がつかない程の入らず山であり、身を隠し百姓となり、見張り所を作り、荒地を開拓して3年が経ったある日、見張人が白サギ鳥が、海岸近くに群れ飛ぶ様を敵の白旗と見誤り、「敵が押し寄せて来る」と知らせ、逃げる術がなく、捕らえられ憂目を見るよりはと相談の結果、平家の子孫を後へ残したいと話し合い、2人を残して6人の者は、田の中で切腹をした。   6人の死体を平家谷の入らずの森の岩穴へ埋め、鎮魂の為に、平家神社をお祭りした。   平家谷  image=277292283.jpg
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