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 男は一人きりだった。  人里から少し離れた森に住んでいた。  日々の糧は森の幸。  動物と深い森が息づく生命が今の彼の慰めだった。  二人で作った森小屋の前に男は座っている。  しかし、もう妻はいない。  光の届かぬ森の奥、小さな家は傾いでいた。  日よけの布や小さなテーブルにかけられた慎ましやかな装飾。粗末な食卓を飾る食器は丁寧に磨かれて妻のいた確かな証拠がここにあった。  小屋の前に作った煮炊き用の丸太に座り、男はじっと瞳を閉じていた。  森にささやく息を聴くかのように。  木で遮られた暗い森の視界の奥にいる妻を気配で感じ取るかのように。  妻は、昨日死んだのだ。  流行病だった。  ひときしり悲しんだ後は、妻が言い残した通り森の土深くに葬った。  獣が掘り返さぬように深く掘った。  薄く瞳を開けても風はそよともせず、頭上から高い木々にさえぎられずに届いたわずかばかりの光が足元を照らしている。  男は意識を集中して息をしていた。そうしなければ崩れ落ちていただろう。  深いしわが刻まれた長年の苦悩が男を深く蝕んでいる。  精悍な顔つきをした、日に焼けた肌をしている。  いつの間にか大地を踏みしめて、男は立っていた。 獣が、こちらを見ていた。 どこからか、歌。 生か、死か。 男は選択を迫られていた。
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