3⃣藤子 不二夫

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藤子不二夫は漫画家二人の共同ペンネーム 後に解散し別名義で作品を発表する 【藤子・F・不二雄】 1933年 - 1996年 【藤子不二雄A】 1934年 - ●-手塚を恐れさせた新たな精鋭達- 元々漫画を描くことが好きだった二人は中学2年の時に、手塚治虫1⃣の「新宝島」に強い刺激を受け、さらに漫画にのめりこむ。 しばらくして2人は宝塚の手塚治虫の自宅へ訪れ、2人が書いた漫画(『ベン・ハー』)を見せる。 手塚はその際「うん、上手だね」という言葉を掛けてその場を取り繕ったが、内心は「とんでもない子達が現れた……」と恐怖心・ライバル心を抱いたという。 この時2人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた。 安孫子(A)は手塚と初めて会った際のエピソードとして「あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた」とラジオ番組で語っている。また石ノ森章太郎7⃣や赤塚不二夫4⃣も安孫子と同じ印象を受けたという。 また最初のペンネームは「手塚の足にも及ばない」という由来から足塚不二雄名義になった。 ●漫画スタイルの二分化 1960年頃から、劇画が隆盛し、少年誌もそれまでよりもずっと対象年齢が高い漫画を中心に載せるようになった。 1968年に『ビッグコミック』で安孫子(藤子不二夫A)は「黒イせぇるすまん」を発表。 それまでもブラックな漫画をしばしば発表していたが、大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。また少年漫画においては1972年に連載を開始した『魔太郎がくる!!』『ブラック商会変奇郎』のようなブラックな漫画を描いていた。その他に安孫子の趣味であるゴルフを生かして『プロゴルファー猿』といった大作も生まれた。 一方、藤本(藤子・F・不二夫)は児童漫画に取り組んでいたが、劇画隆盛の中、『ウメ星デンカ』や『モジャ公』など思うように人気が出ず悩んでいたと言われる。そんな中、1970年に連載が開始された『ドラえもん』が小学生の間で徐々に人気が上がっていく。また、SF短篇作品を多数発表している。
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