3⃣藤子 不二夫

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●ドラえもん人気爆発と藤子不二雄旋風そして解散へ… 『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、 藤子不二雄作品を中心とした 『コロコロコミック』が1977年に創刊した。 1979年に『ドラえもん』がテレビ朝日系列でアニメ化(二度目)され、 『ドラえもん』人気が不動のものとなる。『ドラえもん』に続いて1980年代には『怪物くん』・『忍者ハットリくん』・『パーマン』・『オバケのQ太郎』・『プロゴルファー猿』・『エスパー魔美』・『ウルトラB』・『ビリ犬』・『チンプイ』が、他局でも『キテレツ大百科』・『パラソルへんべえ』・『笑ゥせぇるすまん』が立て続けにテレビ・アニメ化や映画化されるなど藤子不二雄アニメがテレビに溢れた。また藤子不二雄の漫画全集である『藤子不二雄ランド』が創刊された。 一見すると好調に見える時期だが、藤本はしばしば体調を崩し、『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』(1988年公開)は映画原作漫画が描かれなかった。 1987年、コンビを解消する。コンビ解消の理由については藤本が「実際一緒に作品を描いたのは最初の頃だけで、以降はお互いが別々に作品を描いては藤子不二雄の名前で発表していたものですから、もうここらへんで、お互いに藤子不二雄のネーム・バリューに頼らず一本立ちしていってもいいんじゃないか、と話し合い解消しました」などと共同で発表した。 解消後も2人の間には密な交流があった。 コンビ解消後安孫子は藤子不二雄Aに、藤本は藤子不二雄としたが、1年後に藤子不二雄は「あのね、藤子不二雄Fじゃちょっと語呂が悪いよ。Fを真ん中に持ってきたらどうだ? ミドルネームみたいでかっこいいじゃないか」という石ノ森章太郎の薦めにより藤子・F・不二雄へと変えた。 また安孫子は「自分は社交性があるため、酒やゴルフを覚えたが、藤本はそのようなことは一切しなかった。結果的に藤本は少年のような心を持ち続けるきっかけとなり、逆に自分はその心が薄れ、作風に差が出た」とも語っている。 伝記本によると、藤本が入院した時にコンビ解消を考えたともいわれる。どちらかの死後、遺族によって著作権と金銭で確執が起こると考え、それを未然に防ぐためにコンビを解消したという。
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