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「おいおい、お前の大事な弟に手ぇ出そうとした俺に、怒っていかなくていいのかよ?」
体を捻り、ドアのほうを向くと、ドアノブを握りしめたままの薺が居た。
大きな瞳には光が灯っておらず、どこ見ているのが、なにを考えているのか、まったくわからなかった。
無表情。この言い方以外に、この表情を説明出来る言葉が無いように思う。
…………薺?
そう口にしたつもりが、声になっていなくて、俺の口からは息が出るだけ。
薺のこんな顔を見るのは初めてだった。
眉をしかめ、なにかまずいことを言ったのかと、自分の言った言葉を頭の中で何度も何度も繰り返す。
「……また、今度な」
その言葉にハッとし、再び薺に視点を合わせるも、薺がこちらを見ることはなく、静かにドアが閉まるのみ。
薺があんな表情を俺に見せたことがあっただろうか。
薺があんな態度を俺に向けることがあっただろうか。
薺の小さくも逞しい背中が、あんなに弱々しくなったことがあっただろうか。
薺の凛としたよく響く声が、あんなにか細くなったことがあっただろうか。
なんだ? なにが起きた?
俺がなにかしたのか?
しばらく考えてはみるものの、答えどころか見当もつかない。
『……また、今度な』
今は言わないけれど、いつか必ず言う、という意味だろうか。
待つべき……なんだよな。
追及してはいけない。
そんな気がする。
俺に触れられたくない部分があるように、薺にも触れられたくない部分がある。
人ならば、当然だろう。
薺のことは、一先ず置いて、今は棗のことを考えるんだ。
もう2度と、棗を壊そうだなんて思うな。
リビングと廊下を仕切るドアの硝子部分に自分の顔が映る。
グッと顔を引き締め、ドアを開ける。
そして、ゆっくりと階段を上がった。
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