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残り香
古い歌を耳にすると、意識せずとも当時の情景や感情が鮮やかに再生される事はないだろうか。
私の場合、或る場所に行くと、強く匂いが甦るのだ。
私の名は規子。
27才の普通のOL生活を送っている。
両親は既にない。11年前、自宅の裏山が崩れ、家ごと巻き込まれた。
私も、その時、一緒に逝くはずだったのに、一本の山桜がそれを止めた。
山育ちの私はその桜の木と育ってきた。
花びらを集めてままごとをし、叱られては幹に縋って泣き、初めての口づけも、その木の下だった。
あの夜、地鳴りの轟音とともに家がひしゃげ、暗やみのなか、家ごと押し流された。
そのまま土石流に呑まれなかったのは、桜の木が私の部屋だけを引っ掛かっけたから…。
壁が崩れ、屋根が落ちる。
それを支えるように、折れた幹が鴨居に刺さり、私は桜の幹と壁の隙間から、右腕の骨折だけで救出された。
祖母は病室で『桜が守ってくれたんだねぇ』と、しみじみ呟いた。
思い出すのは、右腕の激痛と土の臭い。
雨の冷たさのなか、桜の香が立ちこめていた事だけ。
桜の花は香らない。葉が、幹が香るのだ。
以来毎年、両親の命日に、私はその崖に立ち、あの日のままの桜の香に包まれる。
桜が、私に会いに来た……。
いつしかそう信じるようになっていた。
付き合っている人と、その地を訪れたこともある。
が、誰もその香に気付かない。当たり前だ。自分でも少女趣味だと思う。でも、この思い出を大切にしてくれる人としか、ともに歩けないと、決めてたのだ。
結婚したくない言訳かもしれない。
今までの男達は、何も気付かなかった。
もう、期待すらしていない。今日の彼も何も言わずに、この場所に連れてきた。
可もなく不可もない。平凡だかやさしい男だ。
崖を登る。もう、地滑りの跡などわからない。ただ、ここで両親が死んだとだけ告げてある。
彼は妙な顔をする。
「お供えに桜餅持ってきたの?さっきから匂うよ、潰れたんじゃない?」
「桜の……」
「うん、だんだん強くなるね。」
桜の‥‥その真上で彼は言った。
その瞬間、突風が吹き、幾千も幾万もの花びらが舞い上がる。
梅雨明けの日差しに煌めきながら花びらは私たちを取り巻き、強い香を残し、天空に消えた。
涙が止まらなかった。母の言葉が思い出される。
『規子は、何でも桜に相談するんだねぇ。』
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