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花曇り
『桜の花の蔭から、いつも母さんが見ているからね』
俺は、父からそう言われ続けて育った。
母と幼い頃に死に別れた俺にある記憶は、淡い水彩画のようだ。
優しく滲むばかりで、ピントが合わない。
こいつも……、そうなるんだろうか。
膝で丸まって眠る息子の頭を撫でた。
黒いブレザーの襟元に涙のしみが白く塩を吹いている。
鯨幕が揺れる。
昨日、妻を送った。進行性の癌だった。
親父はいつもこうやって縁側に座り、庭に植えられた染井吉野に語りかけるように眺めていた。
『母さんがあそこにいるから、そこから見てるから』
いつも、そう呟いていた。
だから、俺は、グレるにグレられなかったじゃないか。
親父も5年前に逝った。後ち添えも迎えず、母さんを追い続けた親父は、無事愛しい女との再開を果たしただろうか。
春の風が往く。
枝が揺れ、モノトーンの鯨幕に薄紅が流れる。
花曇りの日曜日。
桜花が逝く。
妻の旅路に付き従うように、花びらが道をつくるのだろうか‥‥。
埒もない。
桜から視線を引き剥がそうとしたその時……、木の蔭に立ちすくむ人影に気付いた。
(マリエ‥‥)
声にならぬまま、妻の名を呼ぶ
蔭は振り向き、すまなそうに頭を下げた。
大丈夫だ。こいつは‥‥、俺が育てるから。
どこに出しても恥ずかしくない男にしてみせるから、‥‥お前は其処で見ていてくれ。
‥‥俺が逝く日を待っていてくれ……。頬を涙が伝い、息子の顔に落ちる。
俺は、息子の髪を掻き回しながら呟いた。
『なぁ、まぁ坊、ママは‥‥いつでも、あの木のところで、お前の事を見ていてくれるんだぞ』
親父、こういう事だったのか。
親父はこれを、‥‥‥踏ん張って、乗り越えて来たんだな‥。
春の日の縁側には花びらだけが降りしきっている。
いつまでも
いつまでも
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