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  「あれえ?」  午後の部になって中学生中国人空手家少女、リュウ・ホンが演舞用のマットに上がる姿を眺めていた陸田コウはのんびりとその感想を口にした。 「なんかホンちゃん、背ぇ伸びてない? 三十分前より。二十センチくらい」  もちろんそんなことあるはずがないのはコウにもわかっていた。リュウ・ホンはコウよりも小さい、150センチ台の女の子なのである。  しかし、思わず大袈裟に言ってしまうほどに今のリュウ・ホンのオーラ(そんなもの)が偉容に見えた。ライバルのオーラが見えるとか、あたしかっけえなとか思いつつ、演舞前にお辞儀するリュウ・ホンの姿を目で追う。間もなくショートカットの中国人少女はマットの中央へ、悠然と歩み始めている。 「やっぱ迫力あるなぁ」と、コウは小声で笑い、「殺気とか、そんなの出てるのかな? あたし、今回も負ける負けるぅ。絶対勝てない」歌うように断言した。  東北地方の市立体育館。  同じフロア上で股関節の柔軟をしながらくちゃべるコウに、隣で立っていた同じ道場のタケちゃんコーチが答えてくれた。 「わからないぞ。リュウ・ホンが《観空大》の最後で盛大によろけるかも」  柴犬のように素朴な笑顔で前向きなのか後ろ向きな他力本願なのかよくわからないことを言っている。「何それ、あたしのことじゃん」とコウは笑いながら返した。タケちゃんコーチは「お前はよくコケる分、転び方がとても上手い」と誉めてきた。なんだそれ、とコウは両膝を上下させる。  この、ひきしまった筋肉と爽やかな童顔を持った男子大学生とも今週で離ればなれかと思うとコウは微妙に変な気持ちになった。コウはタケちゃんコーチの胸板が好きで、よく胴着の上からベタベタ触っては道場の柳谷師範に「フテイモノ」と拳骨をもらった。太え者? あたしって結構理想的な体型じゃないかなあ、爺ちゃん視力落ちたの? と自分のルックスを特に疑っていなかった女子中学生に「たぶん不貞者だろ」と漢字を教えてくれたのもタケちゃんコーチだ。  そんなフテイモノの陸田コウは、体育館の中央に敷かれた空手マットの方へ細い首を伸ばしながら「おや」と言う。  リュウ・ホンがなかなか演技を始めないみたいだ。  隣の中学校に通っていた天才空手家少女は発泡材で組まれたブルーの敷物に立ち、床の方を気にしているように見えた。
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