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すぐにスーツ姿の、型の演舞に点数を付ける審判団の一人が黒靴下でマットに上がってくる。と言うか、コウの道場の柳谷師範だ。そして、近くの空手少年に渇いた雑巾を持ってくるように指示している。
その様子を遠巻きに眺めながらタケちゃんコーチは笑い始めた。
「さっきコウちゃんが《チャタンヤラクーシャンク》やって潰れかけた場所じゃないか」
「なるほど、あたしの汗か」
コウは間延びした台詞で手をパチンと叩いたあと、「南無南無」と拝むかのように両手を合わせ続けた。「どうかあたしの汗がホンちゃんの足を引っ張りますように」と。願い終わらぬうちに空手マットに残った汗粒は地元の男子小学生にゴシゴシ拭き取られてしまう。
「コウちゃんはやっぱりリュウ・ホンに勝ちたかったのか」
タケちゃんコーチが隣に腰を下ろしてきた。さっき組手の試合で大暴れしていたわりにはまったく汗臭くなく、前髪もおしゃれでサラサラだ。胴着から覗いた胸板に触りたくなったが、今日は会場にタケちゃんコーチの彼女が来てるらしいので我慢することにした。
彼から尋ねられた言葉にコウはとりあえず、うん、勝ちたかった、と素直にうなずく。
「ママが、今日一位になれたらiPod買ってくれるって、約束したの。はりきってコケちまったけどな。《スーパーリンペイ》にしとけばよかった」
「お前のママさんも厳しいのな」
「ママさんって」
同情するような顔で口にした彼の言葉にコウは「んふふ」と鼻で笑う。その反応を見てタケちゃんコーチも自分の言い方を思い改めたのか照れたように上唇を掻いて、はにかんでいる。向こうではリュウ・ホンが改めてマットに入場し、得意にしている形の名前を凛々しく叫んだところだった。タケちゃんコーチは彼女と関係ない話を続けている。
「ちょっとスナックみたいか、ママさん。でも、毎回ちゃんと二位取ってるんだから、ご褒美くれてもいいのにな。……て、人んちの事情だな。ごめん」
「優しいねぇ、タケちゃん」
暇潰しだった柔軟を終えて体操座りをしていたコウは、タケちゃんコーチの脇腹に人差し指をぐりぐり押し当てる。
「iPodいらないからさ、タケちゃん、カノジョと別れちゃえよ。あたしと遠距離恋愛でもしようぜ」
「やめろって」
やめろとは、脇腹抉られることなのか、フテイモノの発言に対してなのか、男子大学生は苦い笑顔で堅い身体をよじらせている。
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