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安っぽい黒のスーツを背もたれに引っ掛け、三十路を過ぎたというのに、彼は昼間っから暇だった。
派手な赤いカラーシャツに、火も点けていないキャメルを口先で遊ばせて。髪はボサボサで、顎髭を伸ばし、染みと埃だらけの天井を見上げている。
「なんかこう、事件とか無いかねぇリョーコちゃん」
白い湯気を上げるコーヒーをデスクに置いた少女に、彼は視線を落とした。
「仕方無いじゃないですか。
おかみさんすぐに仕事選ぶんですもん」
彼のデスクから離れる横目で涼子がそう言うと、彼は即座に立ち上がり熱のこもった声をあげた。
「おかみじゃない! ミ・カ・ミ!!
ほら名刺にも書いてあるでしょ? ひらがなで!」
即座に胸のポケットに手を突っ込んだ彼は、そこに名刺が無いと分かると、スーツの中や、机の引き出しまで引っ掻き回し始めた。
涼子は自分のデスクに腰を落ち着け、下から鞄を取り出した。
「私、宿題やるんで静かにお願いしますね」
「あれ? おかしいなぁ……」
これが御神私立探偵事務所の日常だ。
「世は今日も事件(こと)も無し」
涼子は数学のワークを開いた。
そんな探偵事務所に世にも珍しい客が現れたのは、涼子がほとんど宿題を終え、お菓子をほおばり始めた頃だ。
世にも珍しいというのは、勿論この事務所に来るという意味でだが。
事務所の扉に付けられた鈴が、久しぶりの客の到来を嬉しそうに身を揺らし告げ、涼子はお菓子を喉に詰まらせながら立ち上がる。
「いっ……いらっひゃいませ!」
「言えてないよ、リョーコちゃん」
御神も涼子に続き立ち上がると、背もたれにかけていたスーツを急いで着て、客を出迎えた。
「いらっしゃいませ」
白髪混じりの男性が、そこには居た。
「あの、こちらが……えーと……お……お」「御神(みかみ)です」
オカミと呼ばれる寸前に、すかさず御神はフォローを入れ、男性を中へと案内する。
「リョーコちゃん!お茶菓子、お茶菓子」
右往左往する涼子を無視して、御神は状況に置いてきぼりを食らう客を座らせた。
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