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いつもずっと私に付き纏っていた焦燥感のようなものが、今は憑き物でも落ちたように消えうせてしまっていたのだ。
私は波打ち際のタカシの姿を再び目でとらえた。タカシはしばらく立ち止まってこちらを見ていたらしかった。そのタカシの目と私と目がまっすぐに合った。まるで視線と視線が突き刺し合うかのように一直線に交差する。
と、そのときだった。タカシは急に吹っ切れたように水平線へと踵を返し、沖合いに向かって走り始めた。波を蹴立てて駆けていく息子の背中に白い水しぶきがキラキラと跳ね上がる。そして十分に深い場所にまで達するとタカシはざぶりと体を水に沈めて泳ぎ始めた。
いつのかにか、私の目に海は先ほどまでとまるで異なる相貌を見せ始めていた。あのどこかよそよそしいギラギラとした激しい色は消えて、そこには柔らかな紗をまとった暖かい光があった。
波がざああああっと押し寄せてくる。まるで光そのものが彼方から押し寄せてくるように。光る波頭はざざんと崩れては砂地に波紋を広げ、また次の光がざざあああっと押し寄せてくる。次から次へと尽きることなく押し寄せてくる光。
見上げると、空は畏ろしいほどの奥行きをもって目に映じてくる。 空とはけっしてドーム状の天井にのっぺり青い色を塗ったものではなく、その先にはどこまでも果てしなく続いている宇宙のあることが、今の私にははっきりと感じられるのだった。じっと見つめているとそこに落ちていきそうになる。
そうだ、幼い頃はいつも空はこんな風に見えていた。そして私のすぐ傍らに今にも肩に手を触れようとしている全知全能の存在の気配を感じていた。
ざざざざざんとまた波が崩れ、しゅわわわわと波紋が砂に染みる。
「マアアアム!」
思いがけない沖合いで、タカシが波の中でジャンプして激しく手を振っている。
傾きはじめた日の光の中をぴょんぴょんと跳ね上がるそのシルエットは、随分と背が高い。
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