全一章

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 光の中を遠ざかっていくその敏捷な姿は、一匹の野生動物のようだ。  パラソルの影は思いのほか涼しかった。空気が乾燥しているサンディエゴでは、日本のような蒸し暑さがない。茣蓙に腰を下ろしていると、砂地の熱がすこしずつお尻を上ってくるが、それも今は程よい心地よさだった。  私は傍らのビニールバッグにそっと視線を走らせた。息子にはああ言ったが私はビニールバッグに一冊の本を潜ませてきていた。やがてタカシが泳ぎに夢中になり始めたなら、こっそり読み始めようという魂胆である。母親にもそのくらいの「約束破り」が許されてはいけないわけなどあろうか。  ところが、タカシは波打ち際で波と戯れながら何度も私の方を振り返る。両手で波しぶきを叩き、飛び散る粒子の中で歓声をあげているので、もうこれで大丈夫かと私がバッグに手を伸ばしかけると、それを見透かしているかのようにまたさっとこちらに顔を向ける。  そして「マム!」と大きな声で叫んで手を振るのだった。私も視線をバッグから波打ち際の息子に据えなおし、にっこりと手を振り返す。 そんなことを繰り返しているうち、いつしか出処のわからない笑いが胸にこみ上げてきた。
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