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主の迷いも望みも、その全てを叶える言葉で自身を満たしてくれた彼女に、しかし、主たる尊厳だけを汚さずに、感謝した。
「今宵も月が綺麗ね、咲夜」
毎日の日課である散歩。と言っても、通常の人とは世を反する事象に彼女らは身を置いている。
だからこそ、散歩というには相応しくない。
闇を徘徊するとでも言えばただの恐怖であり、月夜に踊ると言えば、それは紅魔の名にそぐわぬ形容であろう。
だからこそ、それは言葉の意味など吐き捨てた“散歩”に他ならなかった。
「そうですね、…昨日の雨が、雲を刺していったのでしょう。」
彼女は彼女で、違う空を見ていた。
日が上っていたならば、青天という言葉がぴったりの雲一つ無い夜空。
昨日の雨の名残で足元こそ陰るが、鏡のない天には無意味な悩みである。
「あら、咲夜よりナイフ捌きの上手い奴がいたのね。」
紅魔館のメイド長、十六夜咲夜。
“完全”、その言葉を使える、恐らくただ一人の人間であろうか。
自身の生きた果てのない時間に比べれば、彼女といた時間は数える価値さえないだろう。
しかし彼女からすれば、まさしく1秒ですら蓬莱の姫を凌駕するほどの絶対的な価値があるのだ。
「ナイフは刺すものではありません。切れない刃物に、どんな価値がありましょうか。」
どこぞの庭師のようなセリフを吐く。
「ふふっ…、無いでしょうね、あなたが“ここ”にいる限りは」
月も霞むような美貌と存在、どちらともなく続くその体現は、やがて森の奥に開けた小さな草原で姿を消した。
光。
敷かれた草原になど誰が目を向けるだろうか。
澄んだ空気の屈折か、森の魔法か、そこは吸血鬼ですら日の偉大さを知る光の園だった。
傍らのメイドが数歩先に立ち、ともすると気づかないほどの陰影の薄さの切り株の上にレースのような薄手の布を敷く。
「ありがとう、咲夜」
繰り返される感謝を受けて、メイドは在るべき場所に帰る。
いつからか、散歩の度に寄るようになったこの光の園で、彼女は安息に似た何かを得るようになった。
館の主とはいえ、特別激務があるわけでもない。かといって孤独に陰ることもなく、日々は賑やかなかつての脅威に彩られて、それまでの幾百年が霞む勢いだった。
では、何故安息を得る必要があるのか、
彼女は知らなかった―
己が存在の大きさ、自身のこの世全ての事象を否定する力の故に生まれる矛盾。
それを知らぬが故にそれは安息だった。
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