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父親とまともな会話をする事を諦め、少年が姿を消した方角を見遣った沙世は、この時になってようやくある事に思い至る。
――そう言えば……名前、訊くの忘れちゃった。
犬の名前しか聞いてはいなかった。絵を見せると約束したのに。
「沙世!!」
突然父親に呼ばれ、再びびくりとする。
「またね、と言っていたな? どう言う事だ!?」
鬼気迫る、とさえ言っていいその様子に、沙世は父親に対して怯えを感じた。
どう見ても普通じゃない。娘に虫が付く事を怖れるあまり、親馬鹿とも言える態度に出る事がないとは言いきれない父親だが、これはおかしすぎる。
「沙世!!」
再び噛み付くように問い詰められ、仕方なく答える。
「絵を描き上げたら見せるって、約束したの」
「いつだ!?」
「い、一週間後って……」
「一週間後だと?」
ぎらりとその瞳が昏い光を放つ。
それから父親は、再びぶつぶつと独り言に戻った。
――何だってのよ……。
豹変した父親に怯えつつ、その態度の意味が全く理解できない沙世は、身の置き所がない情けない気持ちでその場に立ち尽くしていた。
◇ ◆ ◇
「まずったな」
少年が足元の灰褐色の犬を見下ろし、呟く。
それに答えて、犬も困惑したように鼻を鳴らした。
「あのおっさん、生物学者だね。しかも、フィールドワークがばっちり被ってるし。油断した」
どこか「仕方がない」と言いたげな顔で、犬が短く一声吠える。
「あの子……傷付けたくないな。あんなにキレイな子なのに」
今度は同意を示すように、一声高く。
「一週間後か……」
沈み込んだ表情で腕を組む。
足元からは、心配そうな顔で灰褐色の犬が見上げていた。黄色い瞳に、強い光を湛えながら。
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