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ベンチに戻り、少年からスケッチブックを受け取って、新しいページを開いて鉛筆を手に取った。
琅は神妙な顔をして、沙世の前にきちんとお座りしている。どこか緊張した感さえ漂うその姿に、沙世は思わず苦笑した。
「モデルって言ったって、動いてる姿をスケッチしたいんだから。どっかその辺、走り回っててよ」
沙世の言葉に、琅はきょとんと首を傾げてみせた。
やはり言っている意味が判っているのだろうか。
「俺も一緒に走ってこよっと。来い、琅!」
オン!
鋭く一声吠えて、駆け出した少年の後を追って、琅も力強く地面を蹴った。
一人と一匹が、もつれ合うようにして煉瓦敷の歩道の上を駆け回る。
その姿に笑みをこぼしながら、沙世は紙の上に鉛筆を走らせた。
切り取るのは刹那の一瞬。
琅が力強い脚で地面を蹴った、その瞬間。あるいは鋭いターンを決めて振り返った、その一瞬。
少年とじゃれ合いながら走り回り、めまぐるしく変わるその仕種のひとつひとつの中から、躍動する瞬間を切り取って、紙の上に素早く描き出す。
沙世がその能力に優れていると誉めたのは、中学の美術教師だった。
普通なら、紙に写し取る前に忘れてしまう一瞬の動きを脳裏に焼き付けて、それを表現する能力が素晴らしいと。
美大に行きたいと思ったのは、その教師の言葉がきっかけだったかもしれない。
ひとしきり駆け回って疲れたのか、少年が歩道脇のブロックに腰を下ろした。
それにじゃれ付くように琅が圧し掛かって来て、座ったままの少年と琅の、楽しげな笑い声が混じった攻防が続く。
走り回る事で、それまで追いつ抜かれつしながら絡み合っていた一人と一匹の空気が、初めてぴたりと一つに重なった。
ペットと飼い主ではなく、一対一の存在として、二つの空気――あるいは気配が重なり合う。
傍から見ている沙世が嫉妬さえ覚えそうなくらい、親密な空間がそこには存在していた。
その瞬間を逃がさず、沙世は紙の上に写し取った。
どちらかと言うと風景画ばかり描いていて、人物画はあまり好きではない沙世だが、その一瞬だけは、どうしても見逃せないと思った。
羨ましいとさえ思えるその一瞬の情景を、紙の上に留める為に、一心に鉛筆を走らせる。
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