第一章

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 いつものスケッチの何倍も線を描いた。  それからおもむろに鉛筆を置き、代わってベンチの隅に放ってあった手提げ袋に手を伸ばした。  水と絵の具はいつも用意してある。  十八色の水彩絵の具をパレットに絞り出した物を引っ張り出し、筆と水を用意して、パレットの上に色を作り出す。  最初に作ったのは灰褐色。琅の毛並の色。  絵筆を手にした沙世を見て、少年が物珍しげな顔で近付いて来た。 「色ぬってんの?」 「ダメ、まだ見ちゃ」  スケッチブックを覗き込もうとした少年から、慌てて手元を隠す。 「なんでー。けちー」  つん、と唇を尖らせると、少年はずいぶん子供っぽく見えた。ちょっと沙世と同い年には見えない。  そんな少年の態度に笑みをこぼしながら、沙世は言った。 「描きあがったら見せてあげる」 「いつ?」 「これはあくまでもスケッチだから、ちゃんとしたのに描き直したらね。……一週間くらいかな」  油彩より、ラフっぽいガッシュの方が雰囲気が出そうだった。 「じゃ、そんくらいに、またココで逢える?」 「ええ」  約束、と言いかけたところで、背後から突然声をかけられた。 「沙世?」  聞き慣れたその声に、沙世は勢い良く振り向いた。 「お父さん!」 「今日もスケッチかい、沙世?」 「うん!」  その時は背中を向けていたし、ごく親しい者に出会った気安さから、周囲に対する緊張感などどこかへ吹き飛んでいた。  その為、沙世は少年の様子に全く気付く事ができなかった。それから琅の様子にも。  沙世の父を目にした瞬間、少年の色薄い瞳がすっと細められ、厳しい色を湛えた。  その足元では、それまで機嫌良く尻尾を振っていた琅が、全身に緊張をみなぎらせ、声には出さずに喉の奥で低く呻き声を上げていた。
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