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廊下と呼ぶには広すぎる回廊のフローリングを踏み締めながら、記憶の片隅にあるその部屋までの道順を、ある青年は不意に蘇らせていた。
誰も存在しない辺りには自分の歩む足音だけが響き渡り、幾つもある窓の外を眺めては歩く速度を速める。
そう暫く同じ動作を繰り返していると、彼は数ミリ僅かに空いている扉を視界に捕らえた。
木製で形取られた扉をゆっくり開け放つ。眩しい夕日が、街中と懐かしさで溢れるこの部屋を、それは橙色に染め上げていた。そして、そんな部屋の中で佇む彼女。
彼女の立つその周辺だけが、まるで世界そのものから切り離されてしまったかの様で、それは周りに妙な存在感の錯覚を与える。
本来ならば栗色であるその髪も、全身を包む何処か重くるしさを放つ黒い喪服も、夕日に晒され鮮やかなオレンジへと色彩を変えていた。
微かに開いている窓からは涼しい風が吹き抜けて来ている様で、それを顔に受けながら彼女は静かに瞳を閉じる。
揺れる髪、それを耳に掛ける仕草。見慣れていた筈の人物である事は変わり無いと言うのに、彼女の行動全てがこの穏やかな空間の中で聡明さを引き立たせていた。
「――― 勇慧」
外の澄んだ空気で小さく深呼吸し続ける彼女の名を呼ぶ。
秒針の進む機械的な音が聞こえるこの空間には、何の騒音も存在しない。唯一耳に入って来るものと言えば、幼い子供が別れ際に挨拶する様な短い外界の会話。
その様子を眺めていた彼女は、此方からの声に気が付くと微かに視線をずらし、呆れた顔で一つ溜め息を吐いた。
「……不法侵入で訴えても良い? ――朔夜」
目を細めて怪訝そうな表情を浮かべれば声の発端である数メートル先、ドアに身体を預けている自分の方へと、彼女――勇慧は振り向いた。
『最悪』その言葉が相応しい顔付きである。
「ドーゾご勝手に……。俺はきちんと玄関から上がったし?」
朔夜、そう呼ばれた彼は至って純粋な微笑みを浮かべる。しかしその表情を読んだ勇慧は、一瞬顔を顰めてから端整な顔立ちを再び僅かに歪ませた。
「……へぇ、凄い余裕の発言」
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