全一章

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 これは男女の交わりではなく、大人の受容性の中に子どもの受容性が抱擁されている二重性を表している。(もしも男女の交わりならば、ピーターパンが男性性を表す上向きの三角形を吐き、その二つが交わったら星型が完成しないといけない。)  こうして、酋長の「女性的な父性」に包み込まれたピーターパンの「女性的な子ども性」のシンボルが、作品全体のテーマをシンボリックに表したシーンとなっているのである。  アニメ「ピーターパン」の最後のシーンでは、子どもらを現実世界に送り届けて帰っていくピーターパンの黄金の船を見て、ウエンディのお父さんが、「あの船なら子どもの頃見たことがある」という。「ピーターパンなどいるはずがない、有害な空想だ」といきりまわしていた彼がそう言い出すところに意義がある。  そしてその黄金の船は月あかりに重なりながら、じょじょに雲として縮れて、形を失っていく。同じディズニーの「ダンボ」でも、ダンボが酒に酔ってぶっとんでしまう有名なピンクの象のトリップシーンは、最後に雲になって、朝焼けに溶けていく。この「ファンタジーが雲になって現実の中に溶けこむ」という描写は、ディズニーが彼岸と此岸をつなぐときにしばしば使う手法なのだ。  その「向こう側とこちら側が溶け合う感じ」が秀逸である。あらかじめ二重入れ子の聖杯においてシンボリックに示された「大人性と子ども性の統合」は、このようにして最終的に成就し、物語が閉じていく。  「ダヴィンチコード」文庫版(下)の末尾の角川ベストセラーの宣伝の中に「ピーターパン」が混じっているのは、編集者がピーターパンにおける聖杯のシンボルについて知っていて、意図的に行ったものではおそらくあるまい。クリスチャン・ジャックのファンタジーの並んでいる宣伝ページを付したとき、アイウエオ順で並びにあったジェームズ・バリの作品が含まれてしまっただけなのだろう。だが、これも宇宙のひとつのイタズラに思えた。
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