第九回「愛の対象」

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 小さい頃から自分の名前が嫌いだった。明子、なんてありふれていて古臭い名前、今どき流行らないと思ったし。  だからお小遣い稼ぎにキャバクラでバイトを始めるって決めた時、源氏名には相当悩んだ。 「はじめまして、そらです」 「そらちゃんか、珍しい名前だね」 「ふふ、よく言われます」  嘘ばっかり。あたしは内心毒づいていた。  そら、空、ソラ。あたしがない頭を振り絞って決めた名前は、夜の世界ではたいして珍しくもなかった。  あたしは半ばやけくそになりながらも、毎日濃い水割りを作ってはお客さんが見てないうちに床にこぼしていた。それでも指名が少しずつ取れるようになったら、名前のことはどうでもよくなって来た。  たくさんの女の子の中からあたしを選び取ってくれる誰かがいること。そのことはあたしを幸せにしてくれたし、お財布をあたたかくしてくれた。  あたしはだんだん「そら」でいる自分が好きになってゆく。だけど。 「明子、お前最近付き合い悪くない?」  大学の同級生で、あたしの初めての彼氏は、デートよりもバイトにハマっていくあたしに訝しげな視線を投げかけた。きっと、キャバクラで働いてるなんて言ったら怒るんだろうなあ。 「ごめんなさい、最近居酒屋でバイト始めたんだ」  半分だけついた嘘に、彼はあっさり騙されてしまう。頑張れよ、なんて言ってくれて。  その言葉がなんだか嬉しくて、あたしは家に帰ってメイクを洗い流しながら少しだけ泣いた。彼はあたしが明子、なんてダサい名前でもかまわず愛してくれている。  そう思うといてもたってもいられなくて、あたしはお給料で買ったヴィトンのバッグからケータイを取り出した。 「ごめんなさい、あたし、やっぱり『そら』を辞めます」  そう言うと、マネージャーが止めるのも聞かずに電話を切って留守録に切り替えた。  騙してごめんね、ヨウスケ。  あたし、「そら」でなくてもいいや。  彼と一緒なら、明子でも楽しい毎日が送れそうだと思った。  それがきっと、あたしの「愛」ってやつなんだろう。  頭のてっぺんからつま先まで大好きだよ、ダーリン。
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