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糊のきいた浴衣に袖を通すと、熱い空気が背中にまとわりつく。それに構わず衣紋を抜けば、うっすらと汗ばむ首筋に涼やかな風が吹き込んだ。
姿見を時折覗きながら帯を貝の口に結ぶ頃には、不思議と汗は引いている。
若い頃はこうはいかなかった。顔を真っ赤にしながらおはしょりを整える頃には、背中に大きな染みが出来ていたものだ。慣れというものは大したものだな、と思う。
私が毎年浴衣を誂えるようになって、干支が一回りした。
着道楽の祖父が「そろそろ自分の寸法に合ったものを着なさい」と、ひいきにしていた呉服屋を呼んでくれたのが事の始まりだった。
ミシン縫いの大量生産と違い、手縫いで丹念に仕立て上げられた綿紅梅の浴衣は私の体にしっとりと良く馴染んだ。藍地に雪輪をあしらった大人びた柄ゆきは、少女から女へと変わりつつあった私の自尊心を存分に満たしてくれた。母について着付けを習い、祖父に御披露目した時の晴れ晴れとした気持ちは今も忘れられない。
以来、反物を仕入れたと連絡がある度に胸を躍らせ、選んだものだ。
素足に桐の下駄を履けば、辺りは夕闇に染まりつつあった。私は急いで藁とマッチを手に、玄関を出る。
「姉さん、遅い」
既に素焼きの皿を手にした弟が、年甲斐もなく頬を膨らませていた。白いランニングシャツに半ズボンを履いていたかつての少年は、今や二児の父親だ。
「お待たせ」
私は地面に置いた皿に藁を乗せるとマッチを擦った。乾いた音を立てて燃えた藁は、細い煙をたなびかせる。その白い煙ははるか遠くの空に繋がっているようで、私は目を細めた。
「きゅうりの馬なら、きっとひとっ飛びね」
あの夏、私の浴衣姿をそのまなこに収めて笑った祖父は、秋に死んだ。肺の癌だった。
彼は、孫娘に装う楽しみを遺して逝きたかったのかもしれない。盆を迎えるたび新しい浴衣に袖を通す私を、仏壇の遺影は満足そうに眺めているから。
撫子、朝顔、よろけ縞。
金魚に団扇、桔梗に蝶々。
毎年違う柄を選んでは、祖父を迎え、送り出す。私にとって浴衣は、祖父へと繋がる縁(えにし)の糸だった。
菊に風船、麻の葉、りんどう。
遠くで鈴虫が鳴いている。
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