第十五回「つゆ」

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 昆布を取り除いた鍋に、削りたてのかつおぶしを泳がせれば鼻先をくすぐる香りに自然と目が細くなるのを感じた。沸騰してすぐに火を止め、ざるで漉す。  額に汗が滲むけれど、構いやしない。煮きったみりんにいま取ったばかりの一番だしを加え、醤油を注ぐ。深い鍋でお湯を沸かすことも忘れないようにしないと。二口しかないコンロは、大忙しだ。 「お、今日はそうめんか」  のれんの隙間から、父が顔を覗かせる。私は軽く頷いて、小皿にひと口ぶんだけすくったつゆを含んだ。鼻に抜けてゆく、豊かな香り。パックに入ったかつおぶしではこうはいかない。  ――面倒でも、だしはきちんと取りなさい。  懐かしい口癖が、ぼんやりと浮かび上がる。  茹で上がった細い麺を流水にさらしているうちに、父は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。透明な音を立てて満たされてゆく小さなコップのひとつは、黒い位牌の前に置かれた。微かに漂う白檀の香りは、毎日嗅いでいるのに慣れそうもない。  みょうがとねぎ、それに細切りにした大葉をたっぷりと。氷を浮かべたお椀にそうめんを浸して啜れば、じっとりと湿った背中に心地よい風が抜けてゆくようだ。  私たちは、しばらく黙ったままひたすらに麺を啜る。今年最初のそうめんは去年と同じくらいおいしいはずなのに、どこか物足りない気がして私はそっとため息をついた。 「夏、なんだな」  父が小さく呟く。きっと、彼も私と同じ気持ちなのだろう。 「あともう少しで、梅雨明けだったのにね」 「ああ、でも仕方ないさ」  私は幾分か薄くなったつゆをこくりと飲み込んだ。  横着ものの私に小言を投げかけながらも、どこか楽しげに秘伝のレシピを教えてくれた母は、もういない。  私は母の迎えられなかった夏をどう過ごそうか考えながら、再び白い麺を啜った。  鼻の奥がつんと痛くて、涙がじんわりまつげを濡らす。  ――奈美がお嫁に行けるか、心配だなあ。  悪戯っぽく笑った母の、左の泣きぼくろがいとおしくて、そして恋しかった。
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