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煙が目にしみてしかたなくて、赤い炎はじんわりとぼやけて見えた。真夏のアスファルトに立ち上る蜃気楼のような光景に、あたしはぽかんと口を開けたまま後ずさる。
けたたましいサイレンがさっきから響いていて、それに重なるように無線を通した男たちの声が不協和音を誘った。
「レナ!」
集まりはじめた野次馬たちからあたしを守るように、トオルが肩を抱く。
無骨な指先からは煙の匂いがかすかに漂っていて、そのいつも通りの感覚はこんな非常事態ではひどくありがたい。
「めっちゃ燃えてるなあ」
「冬だから、乾燥してるしね……」
どこか人ごとのような会話に、あたしは思わず吹き出した。住んでいたアパートが燃えてるっていうのに、あたしたちはなんて呑気なんだろう。
トオルも唇の端を歪めて皮肉めいた表情を浮かべていた。かかとを上げて軽くキスをすると、日なたの猫みたいに切れ長の目が細められる。
――ああ、好きだなあ。
改めて思うととろりと甘い感情が、枯れた喉の奥からせりあがって来た。
あたしは、トオルのもの。
トオルは、あたしのもの。
子どもじみた独占欲は、留まるところを知らない。
あたしはもう一度、彼の唇に触れるとそっと舌を忍び込ませた。からからの口の中で、わずかに湿る温かい舌。絡めようとすると、逃げてゆく。
「レナ、いちおう人前だから」
たしなめられてあたしは体を離す。つまらない。でも、構わない。
放水を続ける消防士の褪めたオレンジの背中をみつめながら、あたしはアパートに残したものたちのことを思った。
写真も、メールも、すべて燃えて、もしくは水にやられて元には戻らないだろう。
だけど、それでよかった。
「ねえ、今度はあたしと一緒に住んでね」
「……怖い女だなあ」
「知らなかった?」
「知ってた、けど」
首を傾げてトオルの表情を窺えば、困ったような、怒ったような顔をしていた。あたしはにっこりと笑って薄い胸の中に体を滑らせる。
「今日から、よろしくね」
ずっと欲しかった隣の男は戸惑うように体を揺らしたあとで、あたしの背中をゆっくりと大きな掌で包む。
その温かさにため息をつきながら、あたしは燃えてしまった長い髪を思った。
――ごめんね。今日からはあたしの、だから。
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