第十七回「文学」

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 彼女はいつも、ひどく一人だった。  周りから疎まれているわけでもなく、彼女自身も級友との会話で笑みを浮かべることもあったが、その横顔は遠い。  私はいつも少しの恐れと、そして憧れを持って彼女の形の良い耳を、長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳を、薄紅色の唇をみつめていた。 「……早川くん?」  透き通った声が、私の名を呼んだ。  はっと我に返り立ち上がれば、西日の射す教室には空の席ばかり。教科書の影に隠した読みかけの本に夢中になっているうちに、ホームルームまで通り越して放課後を迎えてしまったらしい。くすくすとひそやかな笑い声が私の鼓膜を揺らす。  それが彼女のものだと気づいた時、私の頬は一瞬にして熱を持った。 「そんなに、面白い本なの?」  夏服の、白いカッターシャツに汗が滲む。  私はどう答えたらいいかわからず、しおり紐を挟んだ文庫本を彼女に向かって差し出した。やや黄ばんだ白に、オレンジの文字。古本屋で安く買い求めた一冊だった。 「これ、読んだことある」 「え……」 「私だって、本くらい読むよ」  淡く微笑んで、彼女はページを操る。細い指が、変色した紙をなぞってゆくのを私はぼんやりと眺めた。 「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」  物語の中の一節をそらんじた彼女は、いつもよりずっと近くて、どうしようもなく美しかった。  おとなびた表情の中で、きらきらと輝く二つの瞳が情熱的なヒロインと重なって、そして――。 「あの時のあなたってば、おかしかった」  酔った耳に、囁く声が重なる。 「机を飛び越えようとして、つまづいて……」 「もう、その話はやめてくれよ。恥ずかしい」  艶やかな桃色の唇が、笑みの形に引き上げられる。  私はそれを、自分の唇で塞いだ。しなやかな腕が、首に絡み付く。 「でもそんなところが、新治みたいでよかったの」  湿り気を帯びた声色に、私は目を見開く。はにかんだ微笑みは、少女のようで。  抱きしめた彼女の熱を、私はうぶな少年のようにただひたすらに感じていた。  遠く聴こえるのは、波の音。  漁火の代わりに揺らめくのは、コテージの篝火。  遠く離れた異国の地で、私はかの文豪の作品を思い浮かべていた。
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