第十九回「漫画」

2/2

24人が本棚に入れています
本棚に追加
/48ページ
 右手の中指に染み込んだ黒いインク。  スウェットのどこかしらに張りついたスクリーントーンのかけら。  積み上がる煙草の山。  私が愛したあの人は、いつだって背中を向けている。こちらを向いて欲しくて手を伸ばすけれど、指先は虚しく宙を掻く。  ああ、これは夢なんだ。  そう思いながらゆっくりと目覚める朝に、これから始まる一週間を思いため息をついた。  オレンジ色の満員電車に揺られ、私は東京の中心部へと向かう。灰色の世界の中で幼い恋を繰り返し思い出せば、右手の親指が疼いた。  周囲を気にしながらメタリックブルーの携帯電話を取り出し、ブックマークを開く。三ヶ月ほど前に登録したサイトでは、自伝めいた恋愛小説を投稿している。語彙も技巧も足りない拙い文章でも、少しずつカウンターが回るのは殊の外嬉しいものだった。 「泣けます! 切ない」「マサキとミヤコ、どうなっちゃうの?」――賑やかな絵文字混じりの感想に、あの恋が少女漫画のようにドラマチックなものだったような錯覚を覚える。  けれど、そんな綺麗な恋ではなかったことくらい、私だってわかっている。思い出すたびに胸をちりちりと焼く炎と、それとは裏腹に今ならうまくいくんじゃないかという都合のいい期待。  ひしめく人々の隙間から懐かしい町並みが見えるたび、彼の背中を思い唇を噛んでしまう。  今もあの町で彼は原稿用紙に向かっているのだろうか。  それとも夢を諦め、故郷に帰ったのだろうか。  こんなにも引きずるくらいなら、もっと彼を応援できたらよかったのに。  定職に就くこと、籍を入れること、式を挙げること。多くを望みすぎた私は彼のすべてを失った。  出来過ぎた再会など訪れることなく、あれから三年が経とうとしている。一人にはだいぶ慣れたけれど、寂しさはいつも後ろからそっと忍び寄る。  漫画週刊誌を広げる目の前のサラリーマンをぼんやりと眺めながら、私は小さなため息をひとつ落とした。  が、次の瞬間、心臓が止まるほどの衝撃が襲い掛かる。  嘘。  まさか。  でも。  気がついた時には、開いたドアに向かって駆け出していた。  行き先は、キオスク。  目印は、赤い水着姿のアイドル。  目的は、見覚えのあるペンネーム。  私の物語はまだ、終わらない。
/48ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加