第二回「とある一日」

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 僕らはいつも喧嘩ばかりしていた。理由はひどく些細なことだ。朝食の目玉焼きに醤油がかかっていたり、入浴剤がメロンの香りだったり、傍から見たらつまらないことでも激しく言い争った。  しかし僕は塩こしょうのきいた半熟卵が好きだったし、君は匂いを嗅ぐのも嫌がるほどにメロンを憎んでいる。つまりはお互いに譲れないところを知りながら、肝心なところでうっかり忘れてしまうのが僕らの悪い癖だった。  その日も君は朝から機嫌が悪かった。  原因は僕にある。君が用意してくれた白いドレスシャツに、ケチャップのしみをつけてしまったんだ。真新しいシャツに滲む赤い点々はとても目立った。そのせいで僕は本日二回目の着替えを強いられ、君は昨日回したばかりの洗濯機でシャツを一枚だけ洗う羽目になった。いつ僕が舌打ちをしてもおかしくなかったし、君が金切り声でまくし立てたとしても僕は不思議には思わなかっただろう。  だが僕らは驚くべき忍耐強さを発揮して、肩を並べて玄関を後にするところまでこぎつけた。あともう少しだから。二人とも、自分にそう言い聞かせていたに違いない。  目的地まではタクシーを使った。車内ではなるべく声を発することなく、行儀良く座っていた。それが一番賢いやり方だって僕は知っていたし、君にも異論はなかっただろう。車が静かに街を走っている間じゅう、僕は鞄の中に入れた封筒のことばかり考えていた。  やがて到着した灰色の建物を僕らはしばらく眺め、そしてどちらからともなく中へと足を進めた。そして寝ぼけた顔の職員に声をかけた瞬間、僕は忘れ物に気づいた。 「どうしよう、印鑑を忘れた」  僕の言葉に君はため息をつく。  ああ、ここまでこぎつけたというのにまた喧嘩か。うんざりした思いで目を瞑ろうとした僕に、君は細長いケースを差し出した。 「こういうこともあると思って、作っておいたの」  恐る恐る開けてみると、それは僕の苗字の印鑑だった。その心遣いにいたく感激しながら僕は鞄から封筒を取り出し、中の書類に捺印した。君も続いて自分の印鑑を押す。  職員はようやく体裁の整ったそれに目を通していくつかの作業をしたのち、にこやかに宣言した。 「ご結婚おめでとうございます」  君はほう、と安堵のため息を漏らす。  喧嘩ばかりしていた僕らはこうして夫婦となった。  明日は僕が卵を焼こう。君は醤油で僕は塩こしょう。きっと僕らはうまく行く。
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