第二十三回「白猫」

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 それは、二月の第三木曜日のことだった。  朝から熱っぽくて、さては昨日引っ張り出した薄手のコートのせいだな、と後悔していた。暦の上では春で、ショーウインドーにはパステルカラーの洋服が咲き乱れていて、だから少しだけ浮かれていたのだ。  結局一昨日と同じ黒いショートダッフルを羽織った私は、午後の授業を自主休講することに決めた。  人口学の教授、今日は出席を取りませんように。そう思いながら帰り道をふらふらと歩いていると、視界の端を白いものが横切った。 「……ハナ」  思わず口にした名前に、それは一瞬足を止め、振り返る。毛づやの良い白い体に、綺麗な青い瞳。そして、かぎしっぽ。  かつて我が家のアイドルだったあの子だ。  しかし。  私はぼうっとする頭を軽く振る。  しかし、ハナは私が中学に上がる頃に忽然と姿を消した。あれから七年。まさか、今頃になって彼女が出てくるわけがない。  ――にゃあ。  短い鳴き声は、私を更に混乱させる。ハナにそっくりの高い声。  再び歩き出した後ろ姿を、私は慌てて追いかける。アスファルトの上を音も立てずにモンローウォーク。しなやかな体は、誘うようにくねる。  まるでチョッキを着た白うさぎを追いかけるアリスのように、私は段々と足を早める。細い路地を抜け、ゆるやかな坂道を上り、弾む息はそのままに。  ねえ、ハナ。  あなたはどうしてうちからいなくなったの?  一人で、どこへ行ったの?  あの頃いく度となく呟いた疑問が蘇り、私は潤む瞳を懸命に見開いて白い影を追う。  長い上り坂のてっぺんにたどり着いた時、啜りあげた鼻水と一緒に優しい香りが飛び込んで来た。覚えのあるその柔らかな香りと、目の前に広がる光景に私は息を呑む。  寂れた公園の、遊歩道。  色の少ない冬の景色。  しかし、少しだけ視線を上に移せば。  灰色がかった枝に咲き誇る、たくさんの花。伸びやかに天を目指す白梅は、近づく新しい季節のあかし。  ――にゃあん。  甘えるように響くハナの声が、ゆっくりと心地好い香りに溶けてゆく。  ああ、ハナ。  あなたはもう、いないんだね。  七年かかって受け入れた喪失感は塩辛く、だけれど仄かに甘い涙の味がした。  もうすぐ、春が来る。
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