第二十四回「怨恨」

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   痴話喧嘩なんて、するもんじゃない。  心も体も擦り切れて、ひりひり痛む。自分の価値が紙切れ一枚よりも軽く思えるこんな夜は、やめた筈の煙草に手が伸びる。フィルターを噛み締めるように強く煙を吸い込めば、胸の痛みはいっそう強くなった。  苦いキスを愛おしく思う日々はもう、終わったのだ。  わたしはもう無垢な少女ではないし、あなたは夢見がちな情熱を捨ててしまった。恨み言を疎ましく思うがゆえに行きずりの恋の痕跡をそこここに残す、腐りかけの大人。  それでも構わない、と言い切れるほどの情も掻き消えていった。  もはや言い争う力さえ、生まれないと思っていた。  今夜、あなたに会うまでは。  胸やけしそうな甘い香りと濃い紅を纏った女をぶら下げ、ぎらつくネオンの下で気まずそうに笑ったその唇は、いやにかさついて見えた。  そんなに怒るなよ、なんてへらへらとした宥め方が余計に腹立たしくて、いつか使おうと決めていた切り札を喉元に突き付ける。脅えたような眼差しが、嗜虐心をくすぐった。  六年と八ヶ月ぶんの不満と叱責をまとめてぶつけた時、お腹の中で何かが弾けた。熱い、あついかたまりが眩暈を引き起こす。 「お前が、俺を捨てるのは許さない」  震えた声は、はじめて結ばれた夜のそれに似ていて。  今日まで共に歩んできた日々がいちどきに蘇ってきたのは、安っぽい感傷のせいだけではないはずだ。  でも、もう、戻れない。  唇からこぼれ落ちた煙草は、汚れたブラウスを焦がしながら消えてゆく。頬を濡らすのは春の雨か、それとも。  さよなら、わたしの愛したあなた。  生まれ変わったらわたしたち、もっと幸せな二人になれますように。 『東京都渋谷区の路上で会社員、中村可奈子さん26歳が刺殺された事件の続報です。  警視庁のこれまでの調べによると、中村さんが殺害されたのは2日午後10時以降ということが判明。  中村さんの死因は失血死で、腹や胸を中心に数十ヶ所を鋭利な刃物で刺されており、死体に争った形跡はありませんでした。  財布に免許証や所持金6万円などが残っていることから、警察庁は顔見知りによる怨恨の可能性も含め、中村さんの夫などに引き続き事情を聞いてゆくと共に――』  
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