第三回「ささいなこと」

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 六月の太陽は他のどの月よりも輝いて見える。この時ばかりは日本に生まれて良かったと思わずにいられない。  僕は、久しぶりに朝のランニングへと繰り出した。最初は運動不足を解消するために始めたそれはいつの間にか生活の一部に溶け込みつつあって、だから梅雨入りしてからの僕はなんとなく調子が悪かった。透き通った五時半の空気とか、汗を洗い流す熱いシャワーとか、そういったものが僕を新しく作り替えつつあったのに、雨のやつと来たらじめじめとした湿気と一緒にやって来て、目覚まし時計を止めるたびにため息をつかせるのだ。  だから今朝はひどく嬉しかった。早く起きすぎた自分を呪いながらぱさついたトーストをかじらなくて済む。それだけで今日一日の幸せが保証されたように思えた。  ゆっくりとしたペースで地面を蹴れば、ランニングシューズ越しに伝わる硬いアスファルトの感触さえも僕を恍惚とさせた。にやつきながら走る三十路の男なんて気色悪いことこの上ないが、街はまだ半分眠っていてすれ違う人もいない。だから僕は思う存分楽しみながら、たっぷり四十分走った。最後の方は息が上がってしまったが、その苦しささえもなんだか懐かしく感じた。それはもしかしたら、部活で走り回っていた十代を思い出させるからなのかもしれない。  クールダウンのため歩きながら、僕は一軒の店を目指した。やがて、ふんわりとしたバターの香りが鼻をくすぐる。 「いらっしゃいませ」  ドアを開けると、ごむまりのように弾んだ声が僕にまっすぐ向かって来た。 「あら、しばらくぶりですね」 「ああ、うん。ずっと雨だったから」 「そういえば、久々にいい天気になりそうですね」  白いシャツと同じくらい眩しい笑顔で、彼女は僕の差し出したトレイを受け取った。レジを打ちながら、鮮やかな手さばきで紙袋に詰めていく。 「六〇九円になります」  硬貨と引き換えに渡されたその袋は、まだあたたかい。 「ありがとうございました。良い一日を」  焼きたてのクロワッサンとブリオッシュを胸に抱え、僕は家路を急いだ。久しぶりの晴れと、久しぶりのランニング、久しぶりのおいしいパン。  ちっぽけなことだけれど、僕にとってそれらは鮮やかに朝を彩る素敵なファクターだ。  ああ、明日も晴れますように。
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