第四回「わたしの好きな〇〇」

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 地下鉄の中で居眠りをしていたら、危うく乗り換え駅を過ぎてしまうところだった。すんでのところでドアに駆け寄り、ホームに降りる。ぷしゅう、と気の抜けた音がうなじのすぐ後ろで聞こえて、銀色の電車は発車した。  僕はほっとしながら、のろのろと動くエスカレーター待ちの列に並ぶ。普段あまり運動しないせいか、ふくらはぎがつりそうな感覚を覚えた。そろそろ、スポーツジムを探してもいいのかもしれない。  私鉄に乗り換えて準急で二十分。混み合う電車の中で、足が重く、だるく感じた。  だが目的の駅に着き、賑わう商店街を横目に線路沿いを歩いているうちに疲れてうなだれていた心は少しずつ張りを取り戻してゆく。この角を曲がれば、あとは家まで一直線だ。  薄暗い住宅街の中、門扉の灯りがひときわ明るく見えたのは気のせいだろうか。僕は鞄をごそごそと探り、鍵を取り出す。木製の玄関ドアを開ければ野菜を煮る時の、ほっくりと心が落ち着く匂いが鼻先をくすぐった。今日は、カレーかシチューに違いない。 「あら、早かったのね」  リビングに入ると、キッチンのカウンター越しに春美の声が飛んで来た。僕はネクタイを緩めながら「残業が早く終わったんだ」と答えて、ハンガーに背広を掛けた。その場でスラックスを脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツから袖を抜き取り、最後に蒸れた靴下を足から引き剥がす。  この一連の作業を終えると、今日も一日働いた、という実感が湧いて来るのだ。 「ねえ、今度の日曜日、車を出してくれない?」 「構わないよ。どこまで?」  僕の快諾に気を良くした妻は、郊外の家具専門店に行きたい旨を朗らかに告げた。 「わかった。まだまだ揃えるものはたくさんあるね」  答えながらも、僕は新しい家具の配置を考えて気持ちが浮き立つのを感じた。やがて、湯気の立ったカレーや色鮮やかなサラダがテーブルに運ばれて来る。 「いただきます」  僕と春美とは声を揃えて手を合わせた。  会社まで電車で一時間十五分、駅から徒歩八分。日当たり良好、騒音なし。  先月引っ越して来たばかりのこの家は、三十五年ローンで購入した念願のマイホーム。  僕と春美の、いちばん好きな家。  自分の家で食べるカレーはそれまで食べたどのカレーよりおいしくて、僕は久しぶりにおかわりをした。
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