正規空母Ⅱ

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大鳳 建造所/神戸川崎造船所 500㎏爆弾にも耐えうる飛行甲板を持つ重装甲空母。 昭和十四年の第四次補充計画により翔鶴級空母の設計を基本にして計画された空母「大鳳」は、開戦直前の昭和十六年七月十日に神戸川崎造船所で建造がスタートした。 途中、主力空母四隻を喪失したミッドウエー海戦の教訓を取り入れて、建造開始から二年八ヶ月後の昭和十九年三月七日に完成した。 空母にとって飛行甲板が無防備な弱点であるのは早い段階から知られていたが(英米では搭載機を満載した空母を卵を詰めたカゴと、皮肉を込めて呼んでいた)、そのため日英米の各国海軍はいかにして飛行甲板を守るかを考慮したが、結局は飛行甲板を装甲化するしかなかった。 しかし、装甲をほどこせば艦の重量が増して空母の攻撃力の要である搭載機が減ってしまう。 イギリス海軍は「イラストリアス」級でいち早く飛行甲板を装甲化して、前後のエレベーター間に76㎜の装甲を施したが、代わりに搭載機は36機に半減してしまった。 この機数は日米空母では米護衛空母や日本の軽空母(小型改装空母)の搭載機数並であった。 船団護衛任務が中心のイギリス海軍では搭載機数の減少よりも空母の生存が最重要だったからである。 日本海軍は装甲化した空母を前線に配して、反復攻撃の基地に使う事を目論んだのだ。 結局は全ての空母に装甲を施す方向に転じるが。 これはアメリカ海軍でも同様で、艦型を大きくした4万5千㌧の「ミッドウエー」級で装甲と搭載機の両立を実現化している。 日本海軍の場合は、搭載機の減少は露天繋止(通常は格納庫に収めるなどして塩害を防ぐが、飛行甲板にワイヤーなどで固定する事)等で数を確保していた。 画像は、マリアナ沖海戦に出撃する前に、昭和十九年五月のタウイタウイ泊地での姿。 竣工して百日程で沈没したため本艦の外観は不明な部分が多数にわたりある。image=287515227.jpg
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