正規空母Ⅱ

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信濃 竣工後わずか十日で海底に消えた幻の巨大空母 建造所/横須賀海軍工廠 「信濃」は昭和十五年五月四日から大和級戦艦の三番艦として横須賀海軍工廠で建造がスタートした。 勿論「大和」や「武蔵」と同じで建造は極秘にされたが、一年半後には戦争が始まり、巨大戦艦の建造よりも、小型艦艇の建造や既に有る艦艇の改造・修理を優先させる為に「信濃」の建造中止となった。 しかし、これで工事がすべてストップしたわけではなく、造船ドックを空にするために進水できる状態までは完了させなければいけないので、遅々としたペースではあるが工事は続けられた。 やがて「信濃」に転機が訪れる。 昭和十七年六月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母四隻を失うという敗北を喫した。 このため、まだ解体されてはいなかった「信濃」が空母に改造されることになった、九月には艦政本部で基本設計が纏められた。 「信濃」は通常の空母とは異となり、洋上の移動中継基地としての役割をもつ空母として建造される事になった。 そのため、格納庫は一段しか(艦体の工事はかなりすすんでいたので、通常の空母の格納庫の様に多段化されなかった)艦載機も少ないが、搭載機は防衛用の戦闘機と偵察機のみとなる予定であった。 ちなみに、艦上偵察機「彩雲」はエレベーターのサイズよりも大きいので、搭載する場合は露天繋止が前提であった。 防御に関しては、800㎏爆弾に耐えれるように飛行甲板は装甲化され、エレベーターにも装甲板が貼られた。 艦橋は「隼鷹型」でテストされ「大鳳型」で実用化された煙突と一体化した大型のものであった。 「隼鷹」等での実績から従来の下向き煙突と効果に違いがないことが確認されたため、以後の日本空母の標準となった。 画像は、昭和十九年十一月の東京湾での公試中の姿。 数少ない、写真である。image=292573771.jpg
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