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乾いた風が頬を刺し、太陽も沈もうかとする今、私は『粟田屋』と書かれた看板のかかるこの場所でとある男と待ち合わせをしていた。
軒並み連ねる木造のこの通りに、ごく自然に構えた簡素な蕎麦屋。
「おゆりちゃあーんっ!悪ィな、ちょいと遅れたよ」
その身を橙色に染め、快活に腕を挙げた男がこちらへやってくる。彼の整ったその顔には、疲れの色も感じられた。
「かまへんかまへん。うちかてさっき来たばっかりーや」
いたいけな小娘の笑みを浮かべた私は、ゆり、というのが今の名前だ。
「そんならよかった。さっさと入ろな、蕎麦屋。」
私を急かすこの男、侍なのは判るが果たして何処の誰なのかは知りもしない。――と、いうことになっている。
ということになっている、というのはつまり、そういうことになっているのだから、それ以上は仕様もない。
「そんな、急かさんといてや」
少し恥ずかしげに言う。
「その顔、すげぇ可愛い……ああ、早く、なぁ……」
曖昧に言葉を漏らす男。顔には下品な顔を浮かべる。
要は、なにも私たちはこの蕎麦屋に、蕎麦を食べに来たわけではない、ということだ。
「や……それより先は言わんとって?お侍さん」
「はは……そうだな、今日は、菊之助、で頼む」
男は優位に立ったような顔で、自らの偽名を名乗る。偽名だというのは毛頭わかった上で、というものだが。
「ほな、菊之助はんっ」
上品に笑いながらも腕を優しく抱く。この男の好きな、身分は高く可愛げのある少女のような様相を見せてみているのだ。
まさか、私が、この男の藩や本名、経歴まで知っているとはここにいる誰もが予想だにはしないだろう。
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