序ノ口 -瑠璃の夢に魅せられし-

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  安永八年。 とうに太夫が姿を消した吉原の町は、しかし其れでもむせ返るような金と人の臭いでごった返し、相も変わらず混沌とした輝きがぬらぬらと闇夜を照らしていた。その輝きはどこか妖しく、だが引っ切り無しに人々を惹き付けて止まない。 あすこの女(みつ)はあぁまいぞ あすこの女は酸っぱいぞ ほれ、あの店じゃ昨日あの子が座敷持になったんだと… おぉいよいよ遊べるのか、…… そんな会話は四六時中。 江戸の華咲く闇夜の城下は、黒と紫。 真っ赤に熟れた果実を腹に溜め、今夜も欲にまみれた男共を、口を開けて待っている。 そんな中、ある出逢茶屋がちょっとした話題を呼んでいた。 黒町屋、と言う茶屋が、吉原のど真ん中に建っているのだが、これが一風変わった店であると。 どこもかしこも、確かに今は店毎に個性を持つ時代ではあった。しかしその店が持つ個性が、…否。そこに居る、ある遊女の個性が。 今宵も一人、ほら。 黒町屋の二階の窓を呆然と見上げる、一人の男。 彼の名を、新藤 源三郎(しんどう げんざぶろう)、と言った。 源三郎は、一風変わった男だ。 見た目は二十を少し過ぎた色男である。色黒の肌、がっちりとした肩に、藍の着流しが良く似合う。少し垂れた目元が程よい色香を漂わせ、只佇むだけで客引きは男も女も彼に声をかけた。しかし彼は他の店にはなぜか靡かなかった。その理由が、先刻述べた黒町屋の遊女だ。 あの遊女…『し乃雪(しのゆき)』と言う名の、美女。 其の名に恥じぬ、雪女の如き外見だ。 塗りたくっている訳でもないのに透き通る白磁の様な真っ白い肌。 月光が紡ぎだしたかの如き白銀の髪。 熟れた果実にも似、ぷっくりと自己主張する真っ赤な唇。 剣の一閃にも似た見事な切れ長の目。 そこから世間を丸ごと見据える、銀色の瞳。 そしてその身を飾る、紅と漆黒で塗り分けられた淡白だが妙に目を引く振袖。 其の時代で言う白子(アルビノ)、其れがし乃雪であった。其れも、もし白子で無かったとしても其処等の遊女が敵う筈も無い程に美しい、所謂絶世の美女で。そんな人が、あろう事か毎晩看板の如く二階の窓辺より眼下を憂鬱気な表情で眺めているのである。 只其処でそうしているだけにも拘らず、其の存在は招き猫同然だ。何時かはあの女を抱けると躍起になった客をどんどん引き入れ、毎夜売り上げに貢献していた。  
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