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家路
頬に風が当たる。とても爽やかな夏の風。セミたちが最期の唄を大合唱している。
「…それでね、雅仁くんがいるこの病院に移してもらったのよ…」
誰かが喋ってる。私が聞こえないのは分かってるけど、本当は聞こえてるんじゃないかっていう希望を込めて。
「…ね。もう夏よ…。ひまわりも咲いてる。スイカもおいしいのよ…。でも、お母さんたちだけじゃ…あんたも、いなきゃ…」
だんだん声が震えて、嗚咽が漏れ出す。おでこに水が落ちる。燃えるように熱い水。起きなきゃいけない。起きたら良いことが起こる。分かってるから起きて確かめる必要がある。泣いていた人はまた来るわと告げて気配が遠ざかる。このままじゃダメだ…起きなきゃ。声を出さなきゃ。
「お、か…あ…さん…」
きっとみっともないくらいのかすれた声。小さな声はセミたちの最期の求愛の唄にかき消されても仕方なかった。でも、彼には届いた。
「夏姫…!」
「え…!?雅仁くん!?」
懐かしい匂いが届く。ぎゅっと抱きしめられる。後ろでびっくりしているお母さんとお医者さんや看護師さんの気配がする。
「痛い、よ。私、やっと…取り戻せた…」
ゆっくりとまぶたをあける。雅仁くんがいた。ずっと動かない蝋人形みたいだった雅仁くんがまぶたを動かして、口を動かして、言葉をしゃべる。もうなでてもらえないと思ってた頭をなでてくれる。
「よく、頑張ったな。夏姫が来なかったらずっと逃げ回ってた。俺、ダサいよな…」
顔に雨が降る。生ぬるくてしょっぱい雨。それは生に溢れた暖かな水。
「私だって、雅仁くんがいなかったら、帰って来られなかったよ」
ぎゅっと抱きしめられて、更に生きていることを実感する。
「また、一緒に生きよう…」
「うん」
もう一度、共に歩くという誓いを立てる。この先もきっと困難は押し寄せ、私たちをもみくちゃにしていくだろう。でも、二人で力を合わせれば乗り越えられることを知ったから、もう大丈夫。二度と離れ離れになんかならない。
握った手に更に力を込めて誓い合った。
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